教育家・嘉納治五郎の信念 軍隊式教育の廃止、中国人学生の受け入れ

嘉納治五郎(高等師範校長、講道館蔵)

NHK大河ドラマ「いだてん」の主要人物の一人、嘉納治五郎については、講道館柔道の創始者(偉才)として、また先駆的な教育者(学習院教授・第一高校・高等師範学校などの校長)として、これまで紹介してきたが、今回は軍国主義教育に対抗した教育界の指導者として、嘉納の平和主義の信念を考える。

森文相による高等師範への軍隊教育導入

「日本近代教育制度の父」の一人として文明論者森有礼(ありのり)を挙げるのに私は躊躇しない。明治18年(1885)、森は第1次伊藤博文内閣で初代文部大臣に就任した。教育制度改革の一環として、彼は東京高等師範学校(東京教育大学を経て現筑波大学)を「教育の総本山」と位置づけ教育改革の規範に据えた。近代化を目指して教員養成を急いだのである。

ここで森の教育改革を論じる前に、戦前の東京高等師範学校について略記しておく。東京高等師範学校は授業料が無料だった。それだけではなく制服・制帽や若干の生活費まで支給された。その代わりに、卒業後は旧制中学・高校または地方の師範学校(小学校教員養成校)の教員になることが義務付けられていた(教育界のリーダーになることが求められた)。所定の年数の間は教員を辞めてはいけない。

帝国大学や旧制高校の授業料を払えない貧困家庭の優秀な男子学生が、授業料無料の高等師範学校への入学をしきりに目指した。高等師範学校長嘉納治五郎は積極的に優秀な学生を受け入れ、時には自ら学生の相談に乗った。同時に教授陣の充実を図った。

教員を目指さない学生は、高等師範学校卒業の後、教員として所定の年限を勤め終えてから、帝国大学に入学・卒業して、政財界などで活躍するのが通常だった。東急グループ創始者・五島慶太もその一人であるが、そうした卒業生は多くはなかった。嘉納の堅固な方針により、東京高等師範学校は我が国教育界では最大の勢力となり、卒業生は「師範閥」と呼ばれることになる。

幕末に英米に留学した薩摩藩士森有礼は、維新後廃刀論・妻妾論(一夫一婦制)の提唱や明六社の結成などに取り組んだ。西洋流の近代的文明論者(エリート)であった。公使として英国滞在中、伊藤博文に洋式教育を論じ、彼の共感を得て、後の文相就任のきっかけをつかんだ。伊藤と邂逅(かいこう)した頃のヨーロッパでは、ビスマルク指導下のドイツで強力な中央集権国家が形成されるなど、国家主義さらに帝国主義が強まり、森はこれに共鳴するようになった。伊藤は森に未来の教育政策担当者としての期待をかけた。森が学制改革の柱に据えたのが、近代教育を指導できる人材の養成であった。

森文相の兵式訓練

森文相の師範学校重視は、既に記したように給費制にもあらわれており、全生徒に衣食の他、日用品、1週間手当などが給与された。墨・紙・ペン・鉛筆など文房具は「時の需要に応じて適宜」支給され、靴下は月2足が支給されるなど、相当優遇されていた。

だが森は国家主義的信念から学生の生活や各種訓練には軍隊方式を取り入れた。全学生が入れられた寄宿舎では、舎監(監督者)の下に厳格な規律ある生活が強要された。これは旧制高等学校が同じ全寮制をとりながら、かなり自治が認められていたのとは大きな違いである。

それは高等師範学校の軍隊式訓練は体操によくあらわれていた。体操は、その教育を開始するにあたって、明治11年(1878)官立の体操伝習所が設置され、アメリカから教師リーランドを招き、近代的普通体操の普及をはかっていた。だが、この時すでに陸軍の士官・下士官計4人を教官とし、歩兵体操が重要科目の1つにあげられていた。森文相は体操だけは文部省から陸軍省へ移管し、忠君愛国の精神を育てようとした。

この移管は実現しなかったが、森は高等師範学校長に陸軍省軍務局長・山川浩(旧会津藩重臣)を、また同校体育教官には陸軍将校を現役のまま任命した。森は、明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布式典に参加するため官邸を出た所で国粋主義者・西野文太郎(旧長州藩士)に短刀で脇腹を刺された。応急手当を受けたが傷は深く翌日死去した。享年43歳。

森有礼(「明治の若き群像」より)

軍隊式教育の排除

嘉納が東京高等師範学校校長に就任したのは森の横死から4年後である。だが軍隊式教育は継続されていた。嘉納は軍隊式教育方針を批判し排除する方針を掲げた。高等師範学校校長が、政府方針を否定する大英断である。彼は校長就任2年後の明治28年(1895)、自由を重んじる学生寮規則を定めた。柔道家でありながら洋風の体育を奨励し、日本の学校では初の運動会(運動部の意味で、柔道部、陸上部など8部)を創設した。学生はその1部に入り、毎日30分以上必ず運動させることとした。日本のサッカー・テニス・陸上競技は師範学校で始められた。

嘉納は、知育・体育・徳育のいずれを欠いても教育は成り立たぬ、と信じていた。学問に秀でていても虚弱な体では将来はない。また体育に秀でていても学問を嫌うようでは論外である、とする。立派な教員を育てるためには、体育(スポーツ)を愛する精神を育てなければならない。これは柔道家としての彼の信念であり、教育現場での兵式訓練を重視した森有礼文部大臣に対抗した際の決意でもある。
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嘉納は、「作興」(嘉納編纂、大正13年<1924>12月号)で当時を振り返る。
「我国において兵式教練を学校教育に加えたのは森文部大臣の時からであるが、今日までの実際に徴して見る時は、失敗に終わったといわねばならぬ。なにゆえに失敗に終わったかというに、陸軍の将校を学校に連れて来て、その力をもって学校の精神教育を改善せんと試みたからである。陸軍には有為・有識の将校は多数あるであろう。しかし陸軍そのもののために必要な人物をことごとく学校教育に従事せしむることの不可能はなるはもちろん、それら有為・有識の人物にしても、陸軍将校として価値ある人なので、必ずしも教育者として価値ある人と言うことは出来ぬ。それゆえに、一時的に学校内に陸軍気分を漲(みなぎ)らしたようなことはあったが、真正の意味における学校教育を改善することは出来なかった。ことに森文部大臣薨去(こうきょ)の後は、教育の方針を異にし、したがって兵式教練は形のみ残って、その精神を失うに至った」

高等師範学校に文科、理科の他に体育科を設置したのも嘉納校長の判断によったものだ。明治32年(1899)6月、1年10カ月課程の体操専修科をはじめてから、35年(1902)9月には2年半の修身体操科を、39年(1906)4月には3年の文科兼修体操専修科を40年(1907)4月以降は4年のそれを3回、大正2年と3年(1913と1914)には3年の体操専修科をというように、幾度か改善を加えて本科として体育科まで到達した。ここに嘉納の体育思想の自己研鑽と体育指導者育成にかける情熱を見る。この結果、成績・体力ともにそろった運動選手が相次いで輩出される(余話:森有礼暗殺の犯人西野文太郎は講道館指導者本田増次郎から柔道の手ほどきを受けたことがあった。警視庁は講道館を捜索し、嘉納らが一時治安当局から監視されたという)。

日中友好と留学生受け入れ

嘉納ほど中国との善隣友好を望み実践した明治期の知識人を私は知らない(本連載ですでに紹介した)。19世紀末、日本の文部兼外務大臣西園寺公望の委託を受けて、高等師範校長嘉納は中国から日本に留学する公使館生(留学生)を受け入れる宏文院を自費で創設した。嘉納は清朝末の日中教育交流史に大きな足跡を残すのである。

19世紀末から20世紀初頭、日中関係は逆転し、日本は明治維新後東アジアに侵略を企て、日清戦争後軍国主義の道を歩み始めた。ヨーロッパ列強の中国分割の列にも加わった。嘉納は大いに憂えた。中国と日本の関係は重大であり、中国が国力を保てなければ、日本もそれを全うできない。存亡を相互に依存する近隣関係は、日本が強大になったからには、かつては日本の文明の恩人であり、衰退している清朝(中国)に対して拱手傍観するわけにはいかない。嘉納は言う。

「そもそも日本と清国は僅かに一水を隔てるのみで、かつてその制度文物を輸入し、以って我が昔日の文明を作ることで、今日我国は東洋の先進国となった。彼我の関係は甚だ親密であり、決して欧米諸国の比ではない。我国の清国に対するは、これを扶助することに尽力するのみである。且つ清国が保全され発達することは東洋和平の大局を維持し得るものであり、ロシアの利益から見ても、また、清国のために尽力しないわけにはいかないのだ」。日本は中国と友好関係を保持しなければならない。嘉納が堅持した基本的な日中関係の出発点であった。

嘉納は、洋学・漢学双方の素養をもつ教養人として中国の教育改革に目を向け、その支援活動に邁進した。だが彼の思想や行動は決して日本のインテリ層がすべて認めるところではなく、異なる観点を持つ各界人士の懐疑や非難を引き起こしたが、その大半が誤解だった。嘉納は語る。

「私が支那(中国)のために教育を興すのは、支那を強くして日本を弱くしようと欲しているのではなく、世界の一等国として列し、相互に助け、共に一層強くなって、白人と争うことを欲しているのである。支那の教育が興った後、日本はどうして再び進歩することなく、なお今日の日本のごとくであることがあろうか」。

軍国主義に与(くみ)しない嘉納は、中国の平和があってはじめてアジアの平和が保て、アジアの平和があってはじめて日本の平和を維持できると考えた。中国が西洋支配から脱却し、アジア及び世界の平和に貢献することを熱望したのであり、これが中国の教育改革に参与した重要な動機であった。彼は中国人留学生を受け入れる宏文学院を帝都東京に創設したねらいを語る。

「私は今宏文学院を設立し、清国留学生に先ず日本語及び普通教育を教授している。これをもって各種専門学校に入学する準備とし、また別に速成科を作って期間を短縮して専門の学を修めさせる。総じて言えば、我国人はよく清国に注目し清国に赴き一切の事柄を調査し、国内にあってはまた清国の人を信頼し、もって両国関係の事業を謀り、両国の利益を図るべきであり、これが私の希望するものである」。ここに嘉納の「自他共栄」の精神を見る。明治37年(1904)、時に嘉納45歳である。<教育の事、天下これより偉なるは無く、天下これより楽しきは無し>。嘉納の信念である。

宏文学院で学んだ中国人留学生(弁髪姿も少なくない)は実に約8000人にものぼる。留学生の多くは帰国後指導的教育者となった。後に高名な文学者となる魯迅も留学生の一人である。

参考文献:「嘉納治五郎」(講道館)、「中国人日本留学史研究の現段階」(大里浩秋ら編)、筑波大学附属図書館文献。

(つづく)

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