臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(84)

 メーガーじいさんはグァタパラ耕地から、そのころアララクァーラ市に属していたリンコンに移った。正輝が町に移ったころ、前川はジョセ・ボニファシオ街699番地に住んでいて、すでに大勢の子どもがいた。長女はマサコという日本名。長男のジョゼは津波でもメーガーでもなく城間ゼーという名でよばれた。城間はヲトの結婚前の名前だ。つづいて生まれた子どもたちの名はマルチニョ、オルガ、テオドーロ、ブリジダ、カルメラ、マチルデというあんばいで、日本人にあまりなじみのない名前だった。末の息子のときは、ごくふつうのルイスに戻った。彼は正輝の長男マサユキと同年齢だった。
 メーガーじいさんは進取の気性にとんだ人間だった。他のそのころの沖縄人にはめずらしく、沖縄人は危険性のある事業には向いていないという考えと正反対な生き方をする人間だった。とはいっても、ある点についてはこの二人には共通意識が存在していた。まず、沖縄に対しての愛着の心、つぎに日本に対する親愛の情だった。祖国に対しての郷愁というよりも崇拝の気持ちをもっていた。もうひとつの共通点、それは政治討論が好きだということだった。彼らは自分の意見にあくまでこだわった。また両方ともそろって大変な読書家でもあった。
 危険など意に介さないメーガーじいさんは、正輝に農作業より体力的に楽で、ずっと儲けがおおきい商売を町ではじめるよう助言した。しかし、それには客をていねいにあつかわなければならない。満足しなかった客はけっして戻ってこないこともつけ加えたい。新しい仕事をはじめる前に、ごく常識的な心構えが必要だと、商売にその人が向いているかどうか分かる元一はそのことをはっきり伝えた。
「そんなに難しいことではなさそうだ。でも、もうちょっとポルトガル語がうまく話せないと。まあ、だんだんうまくなるに違いない」と正輝は考えた。
 すでに読むことはできていた。暇なとき、といってもそういう時は少なかったが、手元にすでに何回も読んでしまった日本語のものしかないときには、ポルトガル語のものを読んだ。だから、たまに入手する新聞の記事も分るようになっていた。たとえ古いニュースでも、まったくつんぼさじきのような農村生活では、それなりに役に立つものなのである。

 友人のすすめで正輝はアイスクリーム屋を開けることにした。幸運なことに店の道具をわざわざ備える必要もなかった。元一の知人が9月7日大通り103番地のアイスクリーム店を居抜きで譲り、のぞむなら仕事まで教えてくれることになったのだ。正輝はそこを継承することにした。
 当時のアイスクリームは種類が決まっていた。クリーム、チョコレート、レモン、パイナップル、スグリのシロップ、ココナツ、焼きココナツのアイスクリームだった。作り方は習わなくてはならない。クリームアイスの材料はふっとうした牛乳5リットル、小麦粉、アラルート(矢根粉)スプーン3杯、砂糖1・5キロ、それを攪拌器にうつし、しゃもじでかき混ぜながらなめらかにする。
 適当ななめらかさになったら、型に入れ冷蔵庫で冷やし、少し硬くなったら、スティックをさしこみ再び冷蔵庫に入れ凍らせる。この生地にチョコレート、すりおろしたココナツやすりおろして焦がしたココナツを加えて、それぞれのアイスクリームをつくるというわけだ。
 こうして、正輝は町の人々がセッテ大通りとよぶ道路わきのアイスクリーム店を、1936年10月の半ばにひきつぎ、店の後ろに引っ越した。サン・マルチニョのコーヒー農場、グァタパラー、タバチンガ耕地での棉作、パウケイマーダ農園での棉作や家庭用の野を作っていたころに比べ、ただ店を開け、時間になれば閉めるというずっと楽な生活だった。材料やその他の店の必需品は正輝が仕入れにいき、房子がそのあいだ店をとり仕切った。

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