名将を高校野球につなぎ留めた息子の一言 東海大甲府・村中監督インタビュー

東海大甲府野球部・村中秀人監督【写真:楢崎豊】

テレビ収録で巨人・原監督が就任話を暴露!?

 監督就任30周年を迎えた東海大甲府(山梨)野球部・村中秀人監督がインタビューに応じ、自身の監督生活を振り返った。高校時代は東海大相模高(神奈川)の左腕エースとして夏3度、春1度、原辰徳氏(巨人監督)とともに甲子園の土を踏んだ。東海大、プリンスホテルと進み、1988年に母校の監督に就任し、92年センバツで準優勝。99年から東海大甲府で指揮を執り、最近では2012年夏の甲子園でベスト4の成績を収めている。これまでの足跡、同級生・原との出会いから、恩師・原貢(はら・みつぐ)監督への思いを語った。前編、後編でお届けします。

 村中監督は大学卒業後、社会人の名門・プリンスホテルでプレーした。その間も何度か母校監督就任の要請はあったが、自身がチームの主将を務めていたことや、家族を養っていくためにも今の環境を捨ててまで、決断することはできないでいた。

「プリンスホテルからも将来は監督に、という声もいただいていましたので迷いましたね。結婚もして、女房が妊娠をしていまし…。ただ、高校の監督をやってみたい気持ちもありました」

 夫人に打ち明けると「あなたの人生だから好きにやったら」と背中を押された。驚いたのはプリンスホテルの対応だった。

「(学校側に)給与明細を見せたら、こんなに払えないと言われまして……。でも、会社の判断は給料をそのまま、出向扱いとして5年間、行ってきてもいいということでした。トップの堤さん(義明氏・元西武鉄道グループオーナー)は心が広い方で『行かせてまた戻せばいい』と」

 営業職での勤務態度、野球への情熱が認められた。1987年の秋頃から監督就任の話が動き出し、翌年4月の就任予定だったが、ちょっとしたハプニングが起きた。

「その年のプロ野球のオフ、10月くらいでしたか…高校の同級生の原と津末(元日本ハム)が野球教室をやるということで一緒になりました。原が取材に来ていたテレビ局のカメラの前で『村中君はプリンスホテルを辞めて監督になるんですよ』って言っちゃって、もう周りは大騒ぎですよ」

 思わぬフライングに当時の東海大相模の校長は大慌て。騒ぎを収集するために村中監督の就任が12月に早まったという。

 名門とはいえ、就任当初は勝てなかった。結果が出始めたのは監督3年目くらいだった。

「なぜ勝てなかったのかと冷静に考えると、上から目線でした。社会人の僕の教え方は『こんなこともできないのか!』という感じでした。みんな監督の顔色をうかがっている。監督に褒められたい、失敗したら怒られる…それでは勝てないですよね」

 選手と同じ目線になり、我慢する時はじっと耐えた。試合で失策をしても「積極的なエラーならOK」と目をつぶった。選手たちとの対話を重視。遠征に出かける時は自分自身がハンドルを握り、一緒の時間をできるだけ増やした。

 1992年にはセンバツ出場を決め、エース・吉田道(とおる=元近鉄)を擁して、甲子園準優勝。勝てるチームができるようになり、約束の5年が過ぎた頃にはコンスタントに甲子園に出場できるレベルになっていたため、もう3年、会社から指揮を執ることを許された。

約束の5年…さらに3年が過ぎ、プリンスホテルから連絡が入る

 監督就任から8年が経過しようとした頃、プリンスホテルから監督のオファーが届いた。村中監督にとっては人生の分岐点だった。

「会社には迷惑をかけたので戻ろうかと思いました。家族で話もして9割9分9厘、戻るつもりでいたんですが、息子の一言から、その1厘で心が変わりました」

 小学校3年生になっていた長男に「明日からホテルマンに戻るの? 似合わないと思うよ。イメージが湧かないよ」ときっぱりと言われた。

「そう言われて、純粋に『そうだな、もう似合わないな』とか『高校野球が好きなのかな』という面が出てきまして。結果を残したかもしれないけど、もうひと花咲かせたい、と」

 息子の言葉に心を動かされた。学校側は東海大学の職員のポストを用意してくれた。当時のプリンスホテルの社長には「お前の情熱はわかった。戻りたかったらいつでも戻っていいからな」と理解してもらえた。人に恵まれた社会人生活。感謝の思いが込み上げてきた。

 まず、村中監督が行ったのは、教職免許を取ることだった。大学の3年先輩の岩井美樹氏(現国際武道大学監督)に勧められたからでもあった。その意味は後によく分かった。グラウンドだけでは選手と意思疎通できない。生徒との時間を少しでも長くすること、高校野球は人間教育の場であること……。これが指導者にとって非常に重要なことだと知った。

「2年かかって、教職免許を取りに行きました。同じ大学のクラスに教え子がいたなんてこともありましたね。授業は教室の一番前に必ず座って受けていました。ある時、授業と夏の大会の初戦が同じ日になってしまったことがありまして…困ったことがありました」

 その授業は必修科目で欠席するともう1年履修しないとならなかった。しかし、先生からは「試合に行きなさい」という驚く一言をかけられた。

「自分がいつも一番前で授業を受けていた姿勢を評価してくれていて、全然心配いらいないよ、私も応援に行きます!とまで、言ってもらえました」

 だから国語の教諭になった今でも生徒には力強く言える。「授業はちゃんと受けておいた方がいい」と。実体験ほど説得力のなるものはない。

 こうして村中監督は教師としての道も歩み出した。1998年、新1年生に素晴らしい選手たちが入ってきた。筑川利希也投手(元Honda投手)ら有望選手が集まり、全国制覇への期待が膨らんだ。しかし翌年、同時期にお世話になった東海大相模の校長が東海大甲府の校長になることとなり、一緒に異動する話が持ち上がった。

「この新入生と一緒に甲子園に―という思いがあったので、あと2年、待ってほしいなという気持ちがありました。恩師の原貢さんに相談したところ『選ばれたところに行きなさい』とおっしゃっていただきました。当時、甲府は低迷していたので、また立て直しにいこうかという感じです。10年一区切り、それでここ(東海大甲府)に来ました」

 2000年、東海大相模は村中監督からバトンを受けた門馬敬治監督がエースの筑川を中心とした投打バランスのとれたチームを作り、センバツで優勝を成し遂げた。

 その頃、村中監督は、東海大甲府再建の真っただ中だった。

(続く)(楢崎豊 / Yutaka Narasaki)

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