コニーという軽自動車

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「報道部畑中デスクの独り言」(第125回)では、ニッポン放送報道部畑中デスクが、かつての軽自動車「コニー」の話題などを交え、日産の商品開発に大きく貢献した愛知機械工業について解説する。

日産の新型軽自動車「デイズ」(右は星野朝子専務)

前回の小欄では日産自動車が約1年半ぶりに新型車を発表した話題をお伝えしました。新型車は軽自動車で、車名は日産では「デイズ」、三菱自動車は「ekワゴン・ekX(クロス)」になります。旧型は三菱自動車が開発・生産を担当、日産は企画やデザインで参画していたものの、事実上、三菱自動車から製品の供給を受ける立場でした。

今回は日産が開発を主導し、三菱自動車は生産を担当することに。つまり、日産が“イチから軽自動車をつくる”体制になったわけです。自動車市場の約4割を占める軽自動車だけに、競争は熾烈を極めています。“日産発”の軽自動車がどれだけユーザーの支持を得られるか注目されます。

ところで、そんな軽自動車市場にかつて「コニー」というクルマがあったことはご存じでしょうか?

生産していたのは愛知機械工業という会社です。現在は日産の完全子会社、グループの中核企業で、日産向けを中心に小型車のエンジンや、いまや少数派となった手動変速機=マニュアルトランスミッション、電気自動車用の増・減速機などを生産しています。GT-Rのデュアルクラッチトランスミッションも愛知機械製。

また、かつて名機と言われた日産・A型エンジンの生産拠点でもあり、サニートラックやバネットなど、小型乗用・商用車の生産も行っていました。日産とルノーとの提携後も、他社への部品供給は行っているものの、日産にとってなくてはならない企業と言えるでしょう。今回の新型軽自動車のエンジンはルノー製をベースにしていますが、これを新型車用にアレンジしたのはこの会社です。

コニー・グッピー – Wikipediaより

その愛知機械は、日産と1962年に技術提携、1965年に業務提携を結び、本格的に日産の傘下に入りますが、それまでは「ヂャイアント」というオート三輪や「コニー」という軽自動車を生産するメーカーでした。

特にピックアップトラックである「コニー・グッピー」は排気量が約200ccの2人乗り、見た目はのんびりしたスタイルでしたが、床下に搭載したミッドシップエンジン、四輪独立懸架、無段変速機、ラック&ピニオン式のステアリングなど、当時としては進歩的かつ個性的な技術が投入されていました。しかし、このころの軽自動車は熾烈なパワー競争の真っただ中で、コニーブランドは競争から脱落します。また、当時は高度経済成長期の最中、日産は軽自動車にはあまり関心がなかったようです。

経営資源の選択と集中には高度な経営判断が必要ですが、「21世紀への道 日産自動車50年史」(1983年発行)にはこのように記されています。

「生活水準の向上に伴って(昭和)40年代なかばごろから、需要構造に新たな変化が芽生えつつあった。上級移行の進展である。軽自動車から大衆車へ、大衆車から小型車へ、さらには小型車から中型車へという傾向が、しだいに進みつつあったのである。このような需要構造の変化に応じて新たな商品戦略が必要とされた」

「大衆車需要が急伸を遂げる一方、軽四輪乗用車も40年ごろから増加を示し、45年には70万台を超えて大衆車需要に匹敵する市場を形成するに至った。しかしながら、軽四輪乗用車の需要層には居住性や走行性などにはかならずしも満足しないまま、おもに価格・維持費などの経済的理由から軽乗用車を選んでいることが多かった。そのため、いずれは大衆車へ乗りかえたいという要望が根強く存在していた」

この記述には当時の空気や日産の方針を読み取ることができます。そしてその“新たな商品戦略”は、「サニー」や「チェリー」をはじめとする大衆車へとつながっていきます。愛知機械の自社ブランドの生産は1970年で打ち切られるのですが、私はコニーを当時見た記憶がありません。

むしろ、首都圏に住むある一定の年齢の方には「ダットサン・ベビイ」というクルマになじみがあるかもしれません。子どもたちに本物の自動車交通教育を提供すべく、日産が「コニー・グッピー」をベースに製作したもので、現代風に言えば「スペシャルティ・ミニ」、横浜市の「こどもの国」に100台納入されました。

コニー・グッピーをベースにしたダットサン・ベビイ

「こどもの国」と言えば、天皇・皇后両陛下が先日、結婚60年を迎え、思い出の場所として訪問されました。ご結婚の際、国民から寄せられた祝い金の使い道として「子どもたちのための施設に」と希望されたことをきっかけにつくられた公園です。ダットサン・ベビイは私も展示イベントで見たことがあります。

遊園地のクルマと言えば、ゴーカートのようなレース車両を連想しますが、このクルマは街中を走っていてもおかしくない形をしています。当時、これに乗ってクルマに憧れた方々もいるのではないかと思います。

コニーブランドの消滅から30年あまり、日産はゴーン体制以降、軽自動車の重要性を認識するに至ります。当初はスズキや三菱自動車のOEM(相手先ブランド供給)による軽自動車を自社ブランドで販売していました。その後、三菱自動車と軽自動車の事業会社「NMKV」を設立し、「デイズ」を発売。三菱自動車が開発を担当した初代を経て、二代目では日産が開発を主導するものになりました。

プリンス自動車工業との合併、ルノー、三菱自動車との提携に代表されるように、日産の歴史は「提携」「合従連衡」「再建」の歴史と言えます。その幾多の流れのなか、得るものもあった一方で、整理せざるを得ないものもありました。愛知機械が持っていた軽自動車の技術は、後者のひとつと言えるのかもしれません。

初代ダットサン・サニー

経営判断には様々な背景があると思いますし、そもそも歴史に「たら・れば」はないのですが、愛知機械が「コニーブランド」を続けていれば、今日の日産の軽自動車はまた違う形になっていたのではないかと思います。もっともその場合、A型エンジンは名機として称えられなかったかもしれませんし、GT-Rの復活もなかったかもしれませんが…「経営資源をどこに集中させるか」…自動車ビジネスの難しさがここにあります。

ちなみに、コニーブランドを扱っていた「日産コニー販売」は、愛知機械の自社ブランド生産撤退後、「チェリー」を扱う「日産チェリー販売」として衣替えします。チェリーは日産初のFF車で旧プリンスの技術陣が開発したとされています。こうしてみると、合従連衡をめぐるストーリーが形を変えて現代につながっているとも言え、感慨深いものがあります。(了)