我慢の限界、公園をくれ セントラルパーク銀輪散策②

至る所に突出する4億5000万年前の遺産。チャリを置いて登ってみるのも一興

独立戦争が1783年に終結して、いよいよ新天地アメリカが「オープン」すると、欧州から移民がどっと押し寄せた。1811年にグリッド法が布かれて、マンハッタンが縦横のブロックに区画されると、北へ向かって急速に宅地造成が進み、30年代にはニューヨークの人口は30万人に膨れ上がる。低層アパート群でぎゅうぎゅう詰めの生活を強いられた労働者たちには、息を抜くような広場も小公園もない。休日は酒場で苦いビールをあおるだけ。彼らの鬱憤は極限に達していた。19世紀半ばになると、市民の健康がいよいよ悪化。公園建設は市にとって危急の課題となった。

 一方、ロンドンでは1637年から、英王室がハイドパークを市民に開放していたし、パリでは皇帝ナポレオン3世の掛け声の下、1852年からブローニュの森の公園化計画が進められていた。ニューヨークも負けていられない。

 1850年に持ち上がった公園構想は3年間に及ぶ大議論の末、南北は59ストリートから106ストリート、東西は5アベニューから8アベニューに囲まれた四角い土地を候補地に決定。大公園を建設する許可が連邦政府から市に下りた。

ベセスダ噴水前広場は、公園の基本コンセプトの一つ「様式的な景観」

公園の素顔は処女地

 なぜこの場所に? の疑問は、園チャリをするとすぐ解ける。とにかく起伏が多いのだ。NYCバイクマップスの情報によると,園内の標高差は30メートル以上。また随所に氷河期に押し出された4億5000年前の岩盤が突出していて住宅地の造成にはどう見ても不向きだ。マンハッタンに残された手付かずの処女地。それがセントラルパークの「素顔」である。

 

用途別に作られた園内の道路は、天然の高低差を利用して橋やトンネルで交差している

1857年には、じゃじゃ馬娘のような荒地を文化の香りの高い「レディー」に変身させるべく設計コンペが開かれた。公募で集まった多数の案の中で採用されたのは、フレドリック・ロウ・オルムステッドとカルヴァート・ヴォーの共作による「グリーンズワード計画」。一つの公園で「田園の景観」「自然の景観」「様式的な景観」の三景を合わせ持つのが同計画の基本コンセプトだ。

 地図で見るとよく分かるが、総距離47マイルにおよぶ園内道路のデザインが秀逸だ。東西を横切る4本の車道は、園内の移動の妨げにならないよう全て地下3メートルの切り通しとした他、馬車道、乗馬用道路、散歩道を別個に作り、3種の「交通」が決してぶつからないように設計されている。ちなみに園チャリ専用道の「ドライブ」はかつての馬車道である。馬車の運転を想定して作られた緩やかなカーブやアップダウンが、サイクリストにも快適だ。まだ生き物が尺度の中心であった機械化以前=19世紀の身体感覚が一瞬、呼び覚まされた気がした。(中村英雄)

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