【中原中也 詩の栞】 No.1「春宵感懐 詩集『在りし日の歌』より」

雨が、あがつて、風が吹く。

 雲が、流れる、月かくす。

みなさん、今夜は、春の宵。

 なまあつたかい、風が吹く。

 

なんだか、深い、溜息が、

 なんだかはるかな、幻想が、

湧くけど、それは、摑めない。

 誰にも、それは、語れない。

 

誰にも、それは、語れない

 ことだけれども、それこそが、

いのちだらうぢやないですか、

 けれども、それは、示かせない……

 

かくて、人間、ひとりびとり、

 こころで感じて、顔見合せれば

につこり笑ふといふほどの

 ことして、一生、過ぎるんですねえ

 

雨が、あがつて、風が吹く。

 雲が、流れる、月かくす。

みなさん、今夜は、春の宵。

 なまあつたかい、風が吹く。

  

  

【ひとことコラム】

暖かな春の夜には、冬の寒さにこわばった体がほぐれるように、感覚が解放され思いが広がっていきます。そんなやわらかな心の中に浮かびあがる、言葉にできない大切なものの存在や、同じ時代を共に生きる人々の姿を、この詩はやさしく語りかけるようにうたっています。

中原中也記念館館長 中原 豊

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