特命全権公使大鳥圭介、日清戦争英雄の解任 陸奥宗光外相に平和路線を一蹴され確執

大鳥圭介像(郷里兵庫県上郡町、筆者撮影)

朝鮮半島めぐる対立

明治22年(1889)6月3日、政府は元学習院校長大鳥圭介(戊辰戦争で幕府陸軍司令官、<敗軍の将>を自認)を清国在勤全権公使に任命した。彼の清国公使就任には、漢学・儒学の幅広い教養に加えて、日清両国は共同して欧米列強の帝国主義に対抗していくべきである、との彼の見識が主要閣僚に歓迎された結果であった。57歳。同年10月、晩秋の北京に赴任した。公使大鳥は、清国最高実力者・李鴻章はじめその側近らと交流を重ねて外交の実績をあげる。だが日清両国間に存在する朝鮮半島では戦雲が立ちこめていた。北にはロシアを抱えている。

日本政府は中央集権的統一国家(近代国家)を樹立して20年余り経っていた。近代化を急ぐ日本を帝国主義列強と対等の地位に押し上げるには、日清戦争は「好機」(伊藤博文)の選択であった。外務大臣陸奥宗光も「好機」実現に辣腕を振るった。

朝鮮半島をめぐっては、宗主国・清と新興国・日本の角逐が明治初年以来続いていた。日本は明治9年(1876)、朝鮮に対して一方的な不平等な日朝修好条規を押し付けて、清と朝鮮王朝との宗属関係を否認した。その上で、日本にとって一方的に有利な領事裁判権を押し付け、釜山、仁川などの開港や特別居留区の設置を強要した。公使舘保護のための駐兵権まで手にした。

西欧列強に対して不平等条約の撤廃を求めた日本が、東アジアでは不平等条約を強要したのである。日本の朝鮮政策は、朝鮮官民のなかに反日運動を醸成し、朝鮮に対して宗主国たることを主張する清国との対立を募らせていた。大方の言論(新聞・雑誌)はこれを支持した。侵略主義を煽った。日清両国の対立に加えて、イギリス・ロシアの対立が朝鮮にも及んでいた。

甲午農民戦争と出兵

明治26年(1892)7月15日、在清国公使・大鳥は朝鮮国駐箚(ちゅうさつ)公使の兼務を命じられる。前任の公使・大石正己(旧土佐藩士、後に農商務大臣)は、防穀令(朝鮮の地方官が米・大豆など穀類の日本輸出を禁じた令)事件の交渉の最中に任命された。外交官経験がない上に外交交渉の礼儀をわきまえない「紳士」からは程遠い人物であった。公使・大石は解任となり、学識にたける大鳥が朝鮮公使兼務となった。
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甲申事件(反政府クーデター)の首謀者で親日派の金玉均は公使竹添進一郎と共に日本に逃れた。亡命後10年を経て、金玉均に清国訪問の誘いがあった。李鴻章に面会できる希望を抱いて上海に行ったが、そこで金玉均を待っていたのは、高宗の王妃で独裁者の閔妃(びんひ)が送り込んだ刺客であった。短銃3発が彼の命を奪った。金の遺体はばらばらに解体された上、野良犬に食わせるという残酷無比な処罰が行われた。

親日派指導者・金玉均が暗殺された時を同じくして、明治27年(1894)、朝鮮半島では甲午農民運動(東学党の乱)が起こった。朝鮮南部の全羅道に勃発した東学道徒を中心とする農民蜂起である。東学は西学(キリスト教)に抵抗する儒教など「東の学」の意味である。朝鮮政府は邪教として弾圧した。だが酷税と地方官の悪政・腐敗に苦しむ農民の支持を得て勢力を拡大し、5月末には政府軍を打ち破って道都全州を占領した。

国王高宗(コジョン)は叛乱を鎮圧するため、6月1日清国に軍隊の派遣を要請した。甲申事件の後の明治18年(1885)4月に締結された天津条約によって、日清両国はともに朝鮮から兵隊を引き上げていた。条約はまた、日清両国は朝鮮出兵にあたって相互に事前通告することを取り決めていた。この時、外務大臣・陸奥宗光は清国の通告より先に、在朝鮮日本公使舘代理公使杉村濬(ふかし)からの急報によって、この援兵要請を知った。

朝鮮公使大鳥は、この年4月から外務省命令で一時帰国しており現地にはいなかった。帰国中の大鳥は杉村の電報の入る前の5月30日、陸奥外務大臣に「500人から1000人規模の派兵を準備し、清に行文知照し共同出兵を促すべし」との書簡を送っている。

6月3日、閣議は日清間の「朝鮮に対する権力の平均」を維持し「居留民を保護するため」という名分のもとに朝鮮出兵を了承する。閣議決定を受けて、明治天皇は5日、参謀本部に大本営を設置し、同時に朝鮮公使大鳥に直ちに帰任するよう命じた。

陸奥との食い違い

政府は広島第5師団歩兵第11連隊第1大隊の出兵を命じた。5日大鳥は、海軍陸戦隊430人と共に軍艦八重山に乗り込み横須賀を出港した。出発に際し、総理大臣伊藤博文は「あくまでも平和裏にことを収めよ」と訓示した。これに対して、外務大臣陸奥宗光は「極めて已むを得ざる場合に及ぶまでは平和の手段を以て事局を了結することを第一義とすべし。若(も)し時局急して本国政府の訓令を請う暇なき場合あるに於いては同公使が適当な思料する臨機処分を施すことを得べし」(陸奥著「蹇蹇録」)。

二人の首脳の訓示には明らかに差異があった。外務大臣陸奥は開戦を想定しており、公使大鳥に自由裁量を与えている。6月9日、大鳥と海軍陸戦隊は仁川に到着し、10日にはソウルに入城する。動員令が出た混成旅団(旅団長・少将大島義昌)の先遣部隊も12日早暁、仁川に上陸し、日清両軍の衝突はもはや時間の問題となった。清軍は約80キロ南方に布陣した。公使大鳥は清国代表袁世凱と会談に入った。

「東学党の乱が収まった以上は、日本からの増兵は中止させましょう。したがって清国からの兵力増強も見合わせていただきたい」

大鳥の要請に袁世凱も同意した。大鳥は直ちに本国の陸奥宛に打電した。

「京城(ソウル)は平穏なり。暴徒に関する事情は異なし。追って電報するまでは余の大隊派遣見合わされたし」(原文カタカナ)。

だが電報が到着する時刻(6月11日夜)には、4000人の日本軍が仁川やその周辺の海上に駐屯していた。大鳥はこの後も「増兵の不可」を繰り返し打電した。本国政府は「大鳥公使が要求しない限りは兵士を仁川に止めるよう命令した」と伝えてきた。大鳥は「平和的解決」を基本にすえて袁世凱と交渉を進めた。だが日本の世論(特に新聞)は、「朝鮮の独立を妨げている清国を撃って退却させ日本が朝鮮の自立を助ける」との筋書きに満足し開戦論を煽った。<和平論者>大鳥も、ここに至っては「平和的解決」との方針を変更せざるを得なくなった。同時撤兵をすれば清国の袁世凱が日本軍を撤退させたことになり、清国の朝鮮における影響力が強化される。日本の影響力が低下する事態も予測される。そこで彼は、清国に先行して撤退を求め、それが拒否された場合には宗属問題を名分にして清軍を攻撃するとの案を本国に打電した。

この案は取り上げられず、外相陸奥から彼に届いた指示は「日本政府は自らも満足し且つ公衆の感情を満足せしむべき結果を得ざる間は撤兵できず、この機会を利用して朝鮮政府に漢城(ソウル)・釜山間の電線の譲渡などの利権要求をなすべし」との強攻策であった。新たな提案に大鳥は憤り反論した。が、陸奥は「両軍の衝突に際しては朝鮮の国王と政府を味方にすることが重要であるので、彼らの信頼を勝ち取るべく説得工作を行うべし」との指示をしてきた。

清への最後通牒

陸奥宗光(外相時代、国立国会図書館文献)

現地の公使大鳥と東京の外務大臣陸奥との判断に大きな齟齬(そご)をきたした。公使大鳥のシナリオでは、日本側の主導権で戦端を開くことは可能なはずである。大鳥は、派兵の理由がないまま軍隊を長期駐屯させていることから朝鮮政府の抗議を受け、同時に欧米列強の疑惑を招いていた。大鳥は朝鮮政府に対して「朝鮮国は清国の属国であるか否か」の紹介をした。翌日を回答の締め切りとしたが、回答はなかった。ロシアから干渉が入った。

30日、ロシアの駐日公使ヒトロヴォは外務省に大臣陸奥を訪ねて、日本の朝鮮からの撤兵を強く要求するロシア政府の公文書を手渡した。このロシアの威嚇的な勧告は、日本政府に衝撃を与えた。総理大臣伊藤と外務大臣陸奥は、協議の結果撤兵拒否の回答を行うことを決めた。7月13日、ロシア公使は陸奥に対して、日本政府が出した撤兵勧告の拒否回答を了承する旨の書簡を渡した。この回答で、当面ロシアの脅威は消えたかに見えた。

公使・大鳥は朝鮮政府高官と直接交渉を続けた。朝鮮側の回答は「日本軍が撤兵すれば改革に着手する」と述べるに留まった。これに対して大鳥は「最早貴国と相提携する道を失いたれば、今後我政府は唯我利害をのみ之を視て、独力以て其の手段を執らんと欲す、此の段予(あらかじ)め御通知し置く」(原文カタカナ)と申し送った。風雲は急を告げる。7月18日、清国軍が朝鮮への増兵派遣を決定したとの情報が入った。19日午後6時、外務大臣陸奥は公使大鳥に至急電を打った。

「7月19日午後6時発
                    東京 陸奥大臣
 京城 大鳥公使
朝鮮国政府改革案の拒絶に対し適宜の処置をとるべき旨訓令の件、朝鮮政府は遂に我が改革案を拒絶したる件に関する貴電接受せり。此の時に当り閣下は自ずから正当と認むる手段を執らるべし。併し本大臣の51号電訓の通り他外国と紛紜(ふんうん)を生ぜざる様充分注意せらるべし。而して我兵を以て王宮及び漢城を固むるは、得策に非ずと思わるれば、之を決行せざる事を望む」

19日、大鳥は旅団長大島に面会し開戦への協議を行った。同日、公使大鳥は朝鮮政府に2つの要求を提出した。
(1)京釜電線代設工事強行通告
(2)日本軍警備兵宿舎設置要求

回答の期限は7月22日、3日後である。「最後通牒」(Ultimatum)である。20日、公使大鳥は、大島旅団長に対して、前日の協議を一部変更し「王城の包囲、制圧作戦を優先する。従って牙山への進軍はしばらく見合すよう」申し入れた。

解任と開戦

同日、袁世凱が突然帰国した。日清の対決が避けられないとの判断から「天津に帰って最大の実力者・李鴻章と善後策を講ずる」と言い残して帰国した。朝鮮政府首脳は、清国を頼りにしてきただけに困惑した。大鳥は戦争の長期化を予測した。内政改革問題を実現させるためには、朝鮮国の中枢に日本に協力的な傀儡政権を作っておく必要があった。そこで工作されたのが大院君の担ぎ出しであった。国王の実父でありながら、大院君は閔妃によって追放され、幽閉同様の生活を強いられていた。大院君は閔妃に対する恨みはあるものの、日本に協力することには消極的であった。

23日深夜、朝鮮政府から清国に撤兵を求めているとの機密情報が入った。だが日本側の作戦変更はありえなかった。同日午前0時半、公使大鳥は旅団長大島に「計画開始」の電文を発した。午前4時、ソウル南2キロの龍山に駐留していた日本軍が王宮の景福宮に進攻して占拠し、国王を日本軍の勢力下に置いた。午前6時半、公使大鳥は外務大臣陸奥に電報を打った。

「朝鮮政府の回答不満足につき王宮包囲の処置をとるにいたる。23日の早朝、此の手段を施し朝鮮兵は日本兵に向かって発砲し双方互に砲撃せり」

大院君は日本側の説得には応じなかった。書記官杉村は大院君に直接面会を求めた。大院君は「日本政府は朝鮮の領土を奪わないと約束できるか」と問うた。杉村は「決して朝鮮の領土を割くようなことは致しません」と書いて署名した。大院君は日本側の要求をのむことになった。大院君は公使大鳥を引見し、「これから国政を総裁せよ、との勅命を国王から受けた」と告げ内政改革は大鳥と相談して進めると約束した。その後、国政総裁の大院君は公使大鳥に対し、清国・朝鮮宗属関係の破棄を宣言し、牙山の清国軍の撤退を依頼した。日本軍は清国軍攻撃の「口実」ができた。
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広島の師団司令部に設営された大本営の決議を受けて、連合艦隊は、7月25日、豊島沖海戦で巡洋艦浪速、艦長・大佐東郷平八郎)が清国兵を輸送中の高陞(こうしょう)を攻撃し撃沈した。日清開戦となった。地上戦では混成旅団が30日早朝、増援を絶たれた清国軍を壊走させ、ソウル南方の牙山を占領した。陸海にわたる緒戦の勝利だった。8月1日、日清両国は正式に宣戦を布告する。

陸海軍の戦いは日本軍優勢に運んだ。連戦連勝の報道に日本中が沸きかえり、宣戦の火ぶたを切った公使・大鳥圭介は「国民的英雄」に担ぎ上げられた。ところが王宮を占拠したものの朝鮮の内政改革は一向に進まなかった。日本に好意的な穏健開化派による軍事機務処が設置され、改革のための法案が決定された。だが大院君がことごと反対して承認の印を押さない。そこで総理大臣らによる新行政機関を組織することになった。

8月26日、大鳥は朝鮮国外務大臣・金允植との間で日朝攻守同盟を締結した。清国を標的にしたものである。

王宮を占拠した最大の目的である朝鮮国の内政改革は、遅々として進まない。戦いは日本有利で進んでいるが、予断は許さない。日本の国内世論は次第に「大鳥公使は何をしているのか」との批判めいた論調となった。国内の高まる批判を無視できなくなった総理大臣伊藤は、公使大鳥の更迭を考え出した。同じ長州閥の内務大臣・井上馨に内密に相談した。井上は大鳥の後任として自分が朝鮮に赴任すると言い出した。

現地で指揮をとる大鳥は不満であった。開戦に並々ならぬ努力をし、しかも戦争は有利に運んでいる。朝鮮国の内政改革が遅れているとの理由だけで更迭されるのは理不尽である、との憤懣がこみ上げる。

結局、大鳥は枢密顧問官との要職を与えられるとの条件で解職となった。明治27年(1894)10月11日、大鳥は公使を正式に解任され帰朝することになった。今回は<敗軍の将>ではなかったが、半ば詰め腹を切らされての帰国である。新公使井上は、さしたる成果もあげられず1年も経たないうちに自ら推薦した三浦梧楼(長州閥、貴族院議員)と交代せざるを得なくなった。明治28年(1895)10月8日、三浦は書記官・杉村らと計って閔妃暗殺事件を実行し、罷免・投獄されるが、裁判では無罪となる。         

勝利と三国干渉

日清戦争は日本軍の勝利で終結し、明治28年4月17日、日本側全権伊藤博文、陸奥宗光、清国側全権李鴻章、李経方が下関の春帆楼で講和会議をもち、出講和条約に調印し後に批准書を交換した。下関条約(日清講和条約)の主な内容は(1)朝鮮の独立の承認(2)遼東半島、台湾、澎湖列島の割譲(3)賠償金2億両(テール、約3億円、当時の日本政府国家予算の3倍半とされる巨額)の支払いーなどであった。

講和条約締結からわずかに6日後、ロシア、ドイツ、フランス3国の在日公使が相前後して外務省を訪れ、外務次官・林董(はやし ただす)に面会して、本国からの遼東半島を日本所有とすることに反対する旨の口上書を提出した。三国干渉である。大鳥圭介は外務大臣陸奥宗光宛に書簡を送った。

「(前略)。偖(さて)昨今諸公が心魂を砕事は、露独仏に対し金州半島(遼東半島)の取捨如何の点に可有之哉に被察候。右は左まで心配可致大事件とは不被存候。愚説を左に記し為御参考申上候。三国の申分は金州半島を日本は永久所有するや、又は一時の占領に止まる主意なるやの点に有之候。
日本は之に答えて曰く、我邦は彼地を永久所有の考えには無之、一時戦勝の利にて之を占領候に止まり、清国に対し償金払込其の外の約定実行迄を目的とし、条件皆済みの上は清国へ返還すべしと云うべし。
金州返還の期は三年または五年の後に在るべし。故に今俄(にわか)に海戦を三国に対して開くは極めて拙策なり。且つ又甚危し。(以下略)
五月五日                     圭介
 外務大臣殿」(「伊藤博文関係文書」)。

大鳥が書簡で提案する、清国が条約上の義務を履行するまでは遼東半島を占領する権利を持つ、との日本側の解釈はドイツ、ロシアが拒否した。書簡と同じ日付の5日、外務大臣陸奥宗光は三国政府に回答を出した。

「日本帝国政府は、露、独、仏三国政府の友誼(ゆうぎ)ある忠告に基づき奉天半島を永久に占領することを放棄することを約す」。三国干渉に対する外交上の敗北宣言であった。

参考文献:拙書「大鳥圭介」、国立国会図書館及び筑波大学附属図書館文献。

(つづく)

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