ブーム再来の感あるが 変わらぬ位置づけ

平成の女性史(6)美智子皇后

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江刺昭子

女性史研究者

江刺昭子

女性史研究者

えさし・あきこ 広島市出身、早大卒。原爆作家・大田洋子の評伝「草饐(くさずえ)」で田村俊子賞。著書に「女のくせに 草分けの女性新聞記者たち」「樺美智子 聖少女伝説」など多数。

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阪神大震災の被災者を励ます

 令和の時代の到来にお祝いムードがあふれている。

 メディアは象徴天皇としての30年を「平成流」とたたえ、とりわけ美智子皇后への好感度が高まっている。60年前の「ミッチーブーム」の再来の感さえある。ただ60年前はアイドルに対する興味に似ていたが、いまは慈愛に満ちた「国民の母」に対する敬慕のまなざしに変化しているようだ。

 悲しみ、傷ついた人に寄り添う姿勢が人びとに支持されたのだろう。災害被災者への見舞いや戦没者の慰霊の旅がその例だ。天皇が先を行き、皇后がぴたりと歩調を合わせて後に続く姿が印象的だが、実際に主導したのは皇后だったのかもしれない。

 ▽わたしを束ねないで

 彼女は先代の香淳皇后とは比べものにならないほど、誕生日や外国訪問などの機会をとらえて自らの思いを発信している。しかし、最初からそうだったわけではない。苦悩と葛藤を経ての今の姿である。

 皇太子と結婚した翌年に「お世継ぎ」を産んだことで、男子出産のプレッシャーから解放され、皇太子妃としての立場が安定した。しかし、慣れない皇室の生活は息苦しかったのだろう。白百合女子大学フィロメーヌ教授らの英詩朗読会に1975年から参加。気心の知れた人びとが集う場で自ら詩を英訳して朗読した。その一つに新川和江の「わたしを束ねないで」がある。詩は5連から成るが、第1連と第4連を日本語の原詩で紹介する。

「わたしを束ねないで/あらせいとうの花のように/白い葱のように/束ねないでください わたしは稲穂/秋 大地が胸を焦がす/見渡すかぎりの金色の稲穂」

「わたしを名付けないで/娘という名 妻という名/重々しい母という名でしつらえた座に/坐りきりにさせないでください わたしは風/りんごの木と/泉のありかを知っている風」

 わたしを一つの色に染めないでほしい、風のように自由でありたいという詩への共感だろう。

 1989年、皇太子が天皇に即位し、彼女も皇后としてのふるまいを求められるが、93年10月、満59歳の誕生日に失声症になった。きっかけは週刊誌などによるバッシング記事とされる。戦後民主主義の価値観を体現したマイホーム主義的な天皇家の生活、神道よりもキリスト教に親和性が強いのは、クリスチャン家庭に育ち、キリスト教系の学校で学んだ皇后のせいで、国民が望む皇室の姿ではないとする批判だ。翌年には回復したが、この闘病中に皇后の役割について深く考えるところがあったのではないか。

 ▽神話の后に重ね合わせて

 95年、阪神大震災に際し天皇と皇后は軽装で被災地を訪れた。彼女は膝を折り被災者の手をとって慰め、天皇がそれに倣うような形になった。その後の東日本大震災などの災害や、戦地慰霊の旅でわたしたちはしばしばその姿を目にすることになる。この頃には、皇后は皇室の神道行事にも熱心に取り組むようになったと伝えられる。

 児童文学に造詣が深い皇后は98年9月、インドのニューデリーで開かれるIBBY(国際児童図書評議会)第26回世界大会で基調講演する予定だった。しかしインドが核実験をしたため出席は中止になり、ビデオメッセージを寄せた。日本のテレビでも放映され、大きな反響を呼んだ。

 朝日新聞の「天声人語」は「驚くほど率直に、平明に、皇后さまは自身が経てきた心の旅を語る」と絶賛。翌月、すえもり出版から安野光雅装丁の単行本『橋をかける 子供時代の読書の思い出』が出版され、ベストセラーになった。

 本というものは「どこにでも飛んでいける翼」を子どもに与え、「自己確立という大きな根」を育てると説き、疎開中の小学生時代に読んだ本を挙げている。その中の1冊は父親が与えた神話伝説の本だ。

 神話伝説は「個々の家族以外にも、民族の共通の祖先があることを教えたという意味で、私に一つの根っこのようなものを与えてくれました」と話し、その中でも忘れられない話として、倭建御子(やまとたけるのみこ)と后(きさき)の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)の物語を挙げる。

 建(たける)の遠征の途中で海が荒れる。付き添っていた弟橘(おとたちばな)が、海神の怒りを鎮めるため入水する―。

 講演では「弟橘の言動には、何と表現したらよいか、建と任務を分かち合うような、どこか意志的なものが感じられ」ると表現し、愛と犠牲の関係にまで言及する。皇后としての自らを重ね合わせたとも受け取れる。キリスト教的環境の中で自己確立した人が、自己犠牲を美化した神話に「根っこ」があるとしたことには違和感があるが。

 ▽天皇像構築に不可欠な存在

 以後の皇后は、自信に満ちた表情で外国訪問の記者会見などで積極的に発言していく。

 日経新聞編集委員の井上亮は、誕生日の文書回答、講演、手記といった形式で膨大なメッセージを発信してきたこと、その中で象徴天皇論にまで踏み込んでいる例を示す。そして「美智子皇后は平成の象徴天皇像構築に必要不可欠な存在だった」と位置づける(森暢平・河西秀哉編『皇后四代の歴史』)。

 平成の皇室における美智子皇后の存在感の大きさは、彼女自身の人間力に帰すべきであろう。象徴天皇制下の皇后としての役割を模索し、彼女なりのそれを実現した。独自に築きあげたのは見事としか言いようがないが、それは次の皇后に大きな期待を受け渡すことをも結果する。プレッシャーは大きくならざるを得ない。

 皇后の奮闘にもかかわらず、天皇制における女性のあり方は、平成年間を通じ、本質的には変わることはなかった。皇室典範は女性天皇を否定し、女性皇族への差別も温存している。代替わりの重要儀式とされる「剣璽等承継の儀」にも女性皇族は出席できない。

 そして天皇・皇族たちは今も特別な立場に置かれ、自由を制限されながら、市民とメディアの特別な視線にさらされ続けている。

 平成の皇后の歩みは、そのような「天皇制のいま」を、そのまま映すものでもあった。(敬語敬称略)=女性史研究者・江刺昭子