「村上春樹を読む」(91)「私小説アレルギー」「切腹からメルトダウンまで」

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柴田元幸責任編集「MONKEY」(モンキー)vol.17/SPRING 2019/

 ジェイ・ルービン編『The Penguin Book of Japanese Short Stories』が昨秋刊行され、その序文として村上春樹が書いた「切腹からメルトダウンまで」が、柴田元幸責任編集「MONKEY」(モンキー)vol.17/SPRING 2019/に掲載されています。(同書の日本版は今年新潮社から刊行されました)

 これは村上春樹作品などの翻訳で知られるジェイ・ルービンさんが選んだ近現代の日本文学アンソロジーの各作品に対する村上春樹の解説です。

 「切腹からメルトダウンまで」とあるのは、森鴎外「興津弥五右衛門の遺書」や三島由紀夫「憂国」などの切腹に関係した作品から、佐伯一麦「日和山」、松田育子「マーガレットは植える」、佐藤友哉「今まで通り」など、2011年の東日本大震災を題材・背景とした作品が収められているからです。

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 「ルービン氏の選択した三十五編の作品のうちで、僕がこれまでに読んだことのあるものはたった六作品しかなかった――僕自身の書いた作品を含めてだ!」と村上春樹は書いています。「1963/1982年のイパネマの娘」(1982年)と「UFOが釧路に降りる」(1999年)の2つの村上春樹作品が収録されていますので、村上春樹が読んだことがある他の著者の作品は、4作となります。

 夏目漱石『三四郎』第1章がペンギンブック版には収録されていて、「この小説は漱石の作品の中では、個人的にはいちばん好きなものだ」と書いているので、「これまでに読んだもの」と考えてもいいかと思います。

 森鴎外は「興津弥五右衛門の遺書」に続く中編小説「阿部一族」で血なまぐさい切腹のことを書いています。この「阿部一族」は『騎士団長殺し』(2017年)の中で、主人公の「私」が読んでいる小説ですので、「興津弥五右衛門の遺書」も読んでいる可能性が高いかなと思うのですが……。

 でもそうやって、詮索していくことは、あまり上品なことではないので、もうやめますが、ここに収められた多くの未読の小説に対して、村上春樹は実にフェアに、かつコンパクトに、作品の美質を紹介しています。これが「切腹からメルトダウンまで」というこのアンソロジーの解説序文の最も素敵な点だと思います。

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 それらの紹介は、ほんとうに文学作品を書くという行為に対する敬意に満ちていて、気持ちのいいものですが、好きな作家への特別な思いも、ところどころに記されています。

 例えば、谷崎潤一郎の「友田と松永の話」について紹介した後、次のように書いています。

 「谷崎については少し個人的なことを書かせていただく」とあって、続けて「僕が三十代半ばで『谷崎賞』を受賞したときには、谷崎夫人の松子さんが高齢だったがまだお元気で、授賞式にお見えになったとき、わざわざ僕のところに来られ、受賞作の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のことを、『ずいぶん面白く読ませていただきました』と褒めてくださった。谷崎は僕の敬愛する作家でもあり、光栄に思ったことを覚えている」そうです。

 さらに、初めて米国・ニューヨークの「ザ・ニューヨーカー」本社を訪れたとき、当時の編集長のロバート・ゴットリーブの書棚に谷崎の『細雪』が3冊も並んでいたことに、話が及んでいきます。

 他に、もう1人、例を挙げれば、中上健次について、こう書いています。

 「戦後の作家でもっとも文学的に力強い作家は誰かと訊かれると、まず中上健次(一九四六~一九九二)の名前が僕の頭に浮かぶ」とあって、さらに、実際に会って面と向かって話すと「作風から想像するよりずっと柔和でセンシティブな人だという印象を持った。脂ののりきっていた時期に病を得て夭逝したことが、たいへん惜しまれる」と書いています。

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 このように、解説の各作品、各作家についての魅力的な言葉を紹介していくことができるのですが、それは読んでもらうとして、今回の「村上春樹を読む」では、この解説の冒頭部に記されていることから、日本の「私小説」というものについて、少し考えてみたいと思います。

 この「切腹からメルトダウンまで」は、次のように書き出されています。

 「ジャズ・ドラマーのバディー・リッチが入院したとき、受付の看護婦に『なにかアレルギーはおありですか?』と訊かれて『カントリー&ウエスタン』と答えたという話を聞いたことがあるが、僕の場合のそれはどうやら『私小説』ということになりそうだ」

 村上春樹は、10代から20代前半にかけて、日本の小説をほとんど読まなかったことを、日ごろ自身が述べています。その理由に1つに、この「私小説アレルギー」が強くあったようです。「今ではさすがにいくぶん弱まってきたが」と解説で書いていますが、そのせいで、若い頃はできるだけ日本文学に近づかないように意識的に努めてきたようです。さらに「あの独特の私小説的体質というのは、近代日本文学を通過し理解しようとするとき、避けて通ることができないものだから」とも書いています。

 でも、日本人の小説家になってからは、日本の小説についてほとんど何も知らないというのも、いささか問題となるので、「三十歳を過ぎてからは、できるだけ日本の小説を手に取るようになり、おかげで面白い小説をいくつも発見することになった」そうです。

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 そのように『The Penguin Book of Japanese Short Stories』の序文「切腹からメルトダウンまで」に、村上春樹は「私小説アレルギー」について記しているのですが、その私小説観というか、私小説に対する村上春樹の考えは、そう単純なものではないのです。

 村上春樹が日本の文学について書いたものに『若い読者のための短編小説案内』(1997年)があります。

 この本の「まずはじめに」という、まえがきに相当する部分で「僕はいわゆる自然主義的な小説、あるいは私小説はほぼ駄目でした。太宰治も駄目、三島由紀夫も駄目でした」と、やはり「私小説」が苦手であることを村上春樹は書いています。

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 そして、自分が、この本を書くまでの段階で、「日本の小説の中でいちばん心を惹かれたのは、第二次世界大戦後に文壇に登場した、いわゆる『第三の新人』と呼ばれている一群の作家でした」と記しています。

 その言葉通り、この本で、取り上げ、論じられる作家と作品は、吉行淳之介「水の畔り」、小島信夫「馬」、安岡章太郎「ガラスの靴」、庄野潤三「静物」、丸谷才一「樹影譚」、長谷川四郎「阿久正の話」の6つの短編です。

 丸谷才一と長谷川四郎は、「第三の新人」のグループに入らない作家たちですが、村上春樹にとって、その前後に登場し、興味を持った人のようです。

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 さて、そこで、村上春樹にとっての「私小説」という考えが一筋縄ではいかないと思うことを紹介したい。つまり、この本で取り上げられる作家で、安岡章太郎と庄野潤三は、いわゆる「私小説」作家ですし、吉行淳之介も小島信夫も、本人たちの意識は異なっていたと思いますが、周辺からは、「私小説」的に作品を書く作家という見方もある小説家だからです。

 実際『若い読者のための短編小説案内』には「第三の新人が世に出てきたときに、文壇の主流は『こんな私小説的な小市民的な、身近な狭い世界しか描けない作家たちは、早晩どこかに消えていくだろう』と、彼らのことを軽んじるわけですが、どうしてそんなに甘くない。彼らは彼らなりにしたたかであり、二枚腰的に戦略的でもあった。その中でも、安岡章太郎はいちばんの『確信犯』であったと言っていいでしょう。もちろんこれは褒めて言っているわけですが」と書いています。

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 この安岡章太郎は「文章が最もうまい作家」として、村上春樹が名を挙げている小説家であり、その安岡章太郎の「ガラスの靴」を取り上げた回では「安岡章太郎の作品を『私小説』のひとつの変形として捉える人もいますが、僕としては、むしろ逆の方向から彼の作品を取り上げていった方が、その道筋がよりすっきりと見渡せるのではないかという気がします」と書いているのです。

 続けて「彼はその題材としてほとんどの場合、自分の身に実際に起こったことを取り上げてはいますが、決して私小説的な『自己の無作為性』をめざしていたわけではない。小説イコール世界という状況を希求していたわけでもない」と書いています。

 つまり、村上春樹にとっては、「私小説」的にも語られる安岡章太郎は「私小説」作家ではないのです。村上春樹には「私小説アレルギー」が強くあったために日本の小説をほとんど読まなかったことと、その村上春樹にとっての「私小説とは何か」が簡単につながるものではないことをよく示しています。

 この「私小説アレルギー」の村上春樹が、自分が好きな小説を大切にして、一見、私小説的に見える第三の新人の作家たちの作品を論じていく姿勢は素敵なものです。

 外見の形ではなく、自分が読んだ実感の側から、自分にとって「私小説とは何か」を考えているのです。

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 その「第三の新人」の作家たちと「私小説」との関係は、庄野潤三「静物」を論じた回でも、触れられています。

 かなり長いですが、村上春樹が「第三の新人」たちの作家の作品と、「私小説」の関係をどのように考えているかがよくわかるので、引用してみましょう。

 「安岡章太郎ほどには顕著ではないが、吉行淳之介にも小島信夫にも、そのような『ドンガラだけを持ってくる』傾向は認められると思います。第一次、第二次戦後派と一般に呼ばれる一群の作家たちのいささか重苦しい構築性、意識性を逃れるためにも、もっと自分の背丈にあった私小説の入れ物をよそから持ってきて、それにうまく、ヤドカリ的に自分をあてはめていったわけです。僕はあるいは、彼らのそのようなクレバーな、そして諧謔的な部分に心を惹かれているのかもしれません(多くの場合、人は醒めた賢い目と、洗練されたユーモアの感覚なしには、己れのほんとうの背丈を知ることはできないからです)。それはたしかに、当時の文学のひとつの新しい流れであったと思うのです」

 このうちの「ドンガラだけを持ってくる」という部分について、村上春樹はこんなことを書いています。

 「第三の新人」の作家たちの小説を読む場合「どこまでが私小説的であり、どこからが私小説的でないか」という見切りが大切であることに触れて、例えば「安岡章太郎の作品は、小説的構造としては大いに私小説的であるものの、その小説的意識においてはほとんど私小説的ではない」と書いています。それが村上春樹の基本的な考え方であることを表明して「ドンガラはあっちから引っ張ってきたが、中身はこっちで勝手に入れ替えている」と書いているのです。

 庄野潤三は、晩年、本当に「私小説」作家となっていきますが、『若い読者のための短編小説案内』で村上春樹が取り上げた「静物」は緊張感に満ちた作品です。村上春樹が言うように「ドンガラだけを持ってくる」ような第三の新人たちの小説となっています。

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 さて、『若い読者のための短編小説案内』で、指摘している「自分の背丈にあった私小説の入れ物をよそから持ってきて、それにうまく、ヤドカリ的に自分をあてはめていった」第三の新人たちについて、その自覚的意識的な作品との向き合い方を分析する方法は「エゴ(自我)」と「セルフ(自己)」という村上春樹自身が考え出した方法です。

 こんな方法で、文学作品と作家の関係を考えてみるのは「僕らは――つまり小説家はということですが――自我というものに嫌でも向かい合わなくてはならない。それもできる限り誠実に向かい合わなくてはならない。それが文学の、あるいはブンガクの職務です。しかしその向かい合い方のスタイルはみんな一人ひとり違う。良い悪いじゃなくて。違うからこそ、それは職業として成り立つわけです」と村上春樹は書いています。

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 まず、我々、人間的存在を、この方法で考えてみると、「自己(セルフ)は外界と自我(エゴ)に挟み込まれて、その両方からの力を常に等圧的に受けている。それが等圧であることによって、僕らはある意味では正気を保っている」と村上春樹は説明しています。

 『若い読者のための短編小説案内』には、村上春樹が描いた図が示されていますので、本を見てほしいのですが、このコラムを読む人のために、説明しておきますと、リングドーナツの形を考えればいいかと思います。

 リングドーナツの部分が「自己(セルフ)」です。リングドーナツの環の外側が「外界」で、リングドーナツの内側の環の中が「自我(エゴ)」です。

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 例えば、吉行淳之介の小説は「技巧的『移動』」にあると村上春樹は考えています。吉行淳之介の主人公たちは、自分の位置を絶えまなく移動させ、ずらしていくことよって、外界との正面的な対立を回避します。

 「そしてまた外界との対決を回避することによって、自我との正面的な対決をもできるかぎり回避しようとする」ことを指摘しています。

 さらに安岡章太郎の小説世界は「自分の内部からの力の突き上げを技巧的にゼロ化しようと試みているように見える」と村上春樹は書いています。「つまり自分の中のエゴの力を見せないようにして、『そんなもの私の中にはありませんよ。だから(それに対抗する)外からの圧力も勘弁してくださいね。押さないでくださいね』と言い訳しているみたいです」と書いています。

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 さて、今回の「村上春樹を読む」で、何が申し上げたいかというと、村上春樹は確かに「私小説アレルギー」の人であり、「私小説」が嫌いな作家ですが、でも見かけが「私小説」に見えるものでも、村上春樹にとって「私小説」ではない作品と作家がいるということです。

 安岡章太郎の「ガラスの靴」を論じたところで「決して私小説的な『自己の無作為性』をめざしていたわけではない。小説イコール世界という状況を希求していたわけでもない」と村上春樹が書いていることを紹介しました。

 つまり、村上春樹にとって、「私小説」とは「自己の無作為性」「小説イコール世界」という小説のことなのです。

 「私小説とは何か」という問題は、日本の近代小説にとって、ずっと論じられてきたことです。「私小説アレルギー」である村上春樹の言葉から、それぞれの読者が「私小説とは何か」ということを考えてみるのもいいのではないかと思います。

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 『若い読者のための短編小説案内』は、村上春樹が小説の実作者から、小説と作家の関係を考えた文学論で、とても面白いものです。村上春樹が優れた批評家であることを示しています。未読の人はぜひ読まれたらと思います。(共同通信編集委員 小山鉄郎)