不思議の国の憲法1条 「象徴」を支えるだけの「国民主権」 不可視の天皇制(6)

By 佐々木央

熊本県南阿蘇村の避難所に被災者を見舞う。広く支持されているが、憲法には規定がない

 日本国憲法はとても不思議だ。歴史的に見れば、そうなる必然性はあったともいえるのだが、施行から72年たった今、その歴史は見えにくくなり、奇妙な印象は突出してきているように思う。(47NEWS編集部・佐々木央)

 最も奇妙なのは、第1条である。

 多くの法律がそうであるように、憲法においても第1条は、いわば「原点」を示すべきだろう。「最も大切なこと」とか「根本」と言ってもいいし、よく政治の世界で使われる「一丁目一番地」と言い換えてもいい。

 国家にとって最も大切なこととは、国家の存立要件や建国の思想だ。憲法第1条には、こうした国の根幹を示すことが期待される。

 では、国家の存立要件とは何か。ごく単純に考えるなら、領土があって、人民がいて、統治のシステムが整っていることだろう。統治のシステムは、どんな政体をとり、主権が誰にあるかということに収れんする。

 ▽国の核心は何か

 各国の憲法を収載した「新解説世界憲法集」第4版によると、多くの国が第1条でこうした国の核心ともいうべきものに言及する。

 例えば、イタリア憲法第1条第1項は「イタリアは、勤労に基礎を置く民主的な共和国である」と自己規定し、2項で「主権は国民に属し、国民は憲法の定める形式および制限においてこれを行使する」と国民主権を明確にする。余談だが、「勤労に基礎を置く」とあえて書くのは、逆に国民性を示しているようにもみえる。

 ドイツの「ボン基本法」第1条は「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し保護することが、すべての国家権力に義務づけられている」と譲れない一線を示す。「人間の尊厳」を第1条に据えたのは、ナチズムに対する深い反省からだろう。「憲法」でなく「基本法」と呼ぶ理由も興味深いのだが、ここでは立ち入らない。

 アメリカ合衆国憲法は「第1条 この憲法によって付与される立法権は、すべて合衆国連邦議会に属する」で始まり、統治の組織と権限に関わる条文が続く。のちに市民の権利に関わる「修正」が付加されるが、制定段階では権利保障に関わる条文はほとんどない。統治機構が正しく制御されることが、そのまま人権の保障にもつながると考えたのだろうか。

 アジアに目を転じると、中国は第1条第1項で「中華人民共和国は、労働者階級が指導し、労働者・農民の同盟を基礎とする人民民主主義独裁の社会主義国家である」と定める。「民主主義」と「独裁」が合成語になり得るというのは、私には理解が及ばない。

 韓国の第1条第1項は「大韓民国は民主共和国である」と宣言する。ちなみに第4条は「大韓民国は、統一を志向し、自由民主的基本秩序に立脚した平和的統一政策を樹立して、これを推進する」と宣言し、いまの文在寅大統領の外交が憲法に整合的であることが分かる。分断国家にとって、統一は国是なのだ。

 ▽説明言語にすぎない

 わが日本国憲法に戻ろう。

「第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」

 日本国の「一丁目一番地」は国民ではなく、天皇だった! そういえば、皇居の住所は「千代田区千代田1番地1号」。これも奇妙な符号といえなくもない。

 天皇とは何か。憲法1条によれば、その答えは「国の象徴」かつ「国民統合の象徴」である。根拠は何か。こちらの答えは「主権の存する日本国民の総意」である。

 ここに至ってようやく「主権」や「日本国民」が登場するが、「主権」も「日本国民」も、天皇の地位に根拠を与えるための、説明言語にすぎない。

 「国民主権は前文に書いてあるからこれでいいんだ」という考え方もあるだろう。だが、独立した条文としての主権規定は、日本国憲法のどこにも存在しない。主権は天皇に従属した形でしか記述されない。これでは、少なくともイメージとしては、象徴の方が国民より上にあると感じさせる。

 この第1条から「象徴天皇制」という言葉が生まれた。理解したつもりで使っているが、「象徴」の意味内容は難しい。

 よく例えに出されるのは、平和の象徴としてのハトだ。「平和」という抽象的なことがらを、具体物としてのハトが象徴する。ハトと平和の間には本来、何の関係もない。人間の文化によって紐付けられているだけだ。

 「日本国」という存在と、「国民統合」という事象を、人間である「天皇」が象徴する。憲法1条はそう定める。ハトが平和を象徴するというとき、私はその根拠を「文化」と説明して通り過ぎたが、天皇という1人の人間が、国を象徴するというためには、もっと積極的な意味づけが必要だったのだろう。それが「主権の存する日本国民の総意」であった。

 ▽持続可能性を求めて

 国民の総意(支持)が崩れれば、象徴天皇制は存続し得ない。総意の支持を取り付けるために、どうするか。それに対する一つの回答が、平成期に積極的に展開された戦没者の慰霊や被災者の激励といった活動だった。この間、メディアが褒めそやしていたのはもっぱら、こうした活動であった。

 だが、これらの活動は憲法上もその他の法令でも、全く期待されていない。それどころか、違憲とみなす学説さえある。では、法が天皇に本当に期待したものは何だったか。

 それは極めて制限的・抑制的な振る舞いであり、別の観点からすれば、生身の人間には過酷ともいえるものだった。

 ものを考え、行動し、自らを語りうる人間をシンボルとしたことで、この国はさまざまなレベルで困難を抱え込んだ。1989年から3年半、宮内庁を担当して見たことはそれだった。

 そしてその困難は、見ようによっては第1条以上に奇妙な、第2条によって、増幅されているのだ。(敬語敬称略)

不可視の天皇制(8)脱出の自由

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不可視の天皇制(5)誕生日の処刑

不可視の天皇制(4)結婚の条件

不可視の天皇制(3)沈黙の強制

不可視の天皇制(2)政治性拭えぬお言葉

不可視の天皇制(1)皇室報道の倒錯

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