それは絶頂と崩落だった 平成経済30年史 次代の教訓 写真特集(1)

自主廃業発表の記者会見で質問に答えながら涙を見せる山一証券の野沢正平社長(当時)=1997(平成9)年11月24日、東京・日本橋兜町の東京証券取引所

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 「ちまい」。一瞬、聞き違えたかと思った。わずか3語であの時代の金融界経営者たちの〝肝っ玉〟の規模をそうまとめたのが、まさに当時「渦中の人」だったからだ。平成の金融危機、その代表ケースとして挙げられる20余年前の日本債券信用銀行破綻、最後の頭取だった東郷重興氏が4月に「平成とは何だったのか」というテーマで会見した。

 日本銀行で国際畑を歩んでいたが、多額の不良債権処理の対応のため同行トップの窪田弘氏(故人、大蔵OB)に請われて日債銀入り。窪田氏と経営再建に力を尽くして1997年に頭取となったが翌年、国有化が決定した。

 不良債権の原因をつくったとされ、「A級戦犯」とも言われた旧経営陣は時効などのため罪には問われず、最後にレスキュー隊として駆け付けた東郷、窪田両氏が99年に証券取引法違反容疑(有価証券報告書の虚偽記載)で逮捕された。

 東京地検特捜部と警視庁の合同捜査は当初から「国策捜査」と言われていた。両氏は一審、二審で有罪となったが、最高裁が高裁に差し戻して2011年に逆転無罪が確定した。

 12年間に及ぶ法廷闘争で、さぞかし当時の「恨み節」を語るかと思っていたが、東郷氏はアナリストが淡々と語るような落ち着いた口調だった。

1989(平成元)年 株価史上最高値!

1989(平成元)年12月29日、東京証券取引所の大納会で、日経平均株価の終値が3万8915円の史上最高値をつけた(写真は上から同日午前10時の掲示と、高値に沸く場立ちの証券マン)。しかし翌90年の大納会の終値は2万3848円と下落、日本経済はバブル崩壊の道を歩み始めた

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 危機が迫っているのに、貸し渋りにひた走りし、大きく構えようとしない金融界トップたちの気構え、肝っ玉がちまちまとしているという意味で「ちまい」と東郷氏は語ったのだった。98年に何とかその貸し渋りをやめさせようと国が税金である公的資金を注入しようとした際に、トップ銀行が申請したのは一律1000億円。30兆円用意されたのにもかかわらず、その感覚。坂道を転がるように沈む日本経済の担い手たちの実像を東郷氏はそう表現したのだった。

 当時の教訓は生かされているのだろうか。平成経済史30年を前半と後半に分けて写真特集としてまとめた。(共同通信=柴田友明) 

1991(平成3)年 4大証券 株の損失補てん

法人顧客への株の損失補てんなど、不祥事が重なった4大証券会社は、大蔵省の指示で1991(平成3)年7月10日から4日間営業を自粛した。写真は証券会社の自粛の張り紙=1991(平成3)年7月10日、大阪市内

1994(平成6)年 就職氷河期

就職氷河期と呼ばれた1994(平成6)年当時の就職面接会=東京都文京区の東京ドーム(

1995(平成6)年 ウインドウズ95

米ワシントン州レドモンドのマイクロソフト本社での1995年8月24日のウインドウズ95発売記念行事のリハーサルで、商品のモデルの横で手を挙げるビル・ゲイツ会長(ロイター=共同)

1996(平成8)年 住専問題

参院金融問題特別委で住専処理法案などが可決され、頭を下げる橋本竜太郎首相(中央)。右端は久保亘蔵相=1996(平成8)年6月17日、国会

1997(平成9)年 拓銀が破綻

破綻した旧北海道拓殖銀行本店(当時)=1997(平成9)年4月、札幌市中央区

1997(平成9)年 山一証券が破綻

総会屋への利益供与事件で逮捕者を出し、記者会見で頭を下げる山一証券の野沢正平社長=1997(平成9)年9月17日午後6時20分、東京・日本橋兜町の東京証券取引所

1997(平成9)年 日債銀頭取に東郷氏内定

1997(平成9)年7月、日本債券信用銀行の次期頭取に内定し記者会見する東郷重興副頭取(右)と窪田弘頭取兼会長 肩書は当時

1998(平成10)年 長銀、日債銀が破綻

1998年に破綻した当時の日本長期信用銀行(左)、日本債券信用銀行(右)の本店ビル

(東郷氏の会見は日本記者クラブで行われた)

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