【高校野球】「野球のおかげで…」父の死、震災、がん手術…元PL戦士が苦難の末に叶えた夢

PL学園・中村順司元監督から贈られた「球道即人道」の色紙を持つ盛岡中央・奥玉真大監督【写真:高橋昌江】

闘病生活乗り越え、4月に盛岡中央の監督に就任した奥玉真大氏

 PL学園(大阪)の魂を継ぐ高校の硬式野球部が岩手県に誕生した。4月1日付けで、楽天・銀次の母校で甲子園出場経験のある盛岡中央の監督に奥玉真大氏(44)が就任した。宮城・気仙沼出身ながら、KKコンビに憧れて高校はPL学園へ。大学・社会人を経て、家業を継いでいた2011年に東日本大震災で被災。富士大コーチ、助監督を務めた後は悪性腫瘍に襲われたが回復し、高校野球の監督になった。度重なる苦難を乗り越えることができたのは、野球への思いと、仲間への感謝だった。

「震災、大病の2つを経験しましたが、PL学園をはじめ、野球を通して知り合った仲間たちの優しい言葉や激励、支えがあって、今、生きていられます」

 そう話す奥玉監督。その人生は実に稀有で波瀾でもある。

 野球が盛んな街・気仙沼で生まれた奥玉監督は、どんどん野球の面白さに引き込まれていった。小学3年の時、高校野球界に現れたのが桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」。PL学園に惹きつけられ、試合はテレビで見逃さなかった。

 プロ野球選手を夢見て、高校はPL学園に行きたいと思った。そこで父親がPL学園に問い合わせると、一度は門前払いされたが「付属中からだと毎年、一人くらいは入れる可能性があります」と言われ、試験を受けてPL学園中に編入した。そしてPL学園中3年の秋、PL学園高の硬式野球部に入れることが決まった。この年、奥玉監督の学年からはただ一人だけ。1学年上はゼロだった。「なぜ私が入れたのかは今もわからない」というが、中学1年でわずかな望みを持って気仙沼を飛び出した少年の夢が、叶った。

 PL学園では同期に今岡誠(真訪、ロッテ二軍監督)、1学年下に松井和夫(稼頭央、西武二軍監督)がいた。1992年春のセンバツに背番号14で出場。1回戦の四日市工(三重)戦では代打で適時二塁打を放った。

「外から見ているのは華やかな部分。その華やかさを達成するためにどれだけ大変かは勉強になりました。そこで優しさや思いやり、自分に負けない強さを学べた。野球が上手いとか下手とか、甲子園に行ったとか行けなかったというレベルの話ではなく、それ以上に大きなものを経験させてもらったなと思っています」

 PL学園での濃密な時間を終え、東北学院大に進学。卒業後は社会人野球でプレーしたが、父親が体調を崩し、母親から「帰ってきてほしい」と電話があった。「家族の一大事だから」と引退。25歳で気仙沼に帰り、4年間、家業の酒屋を営む父を手伝った。

 2003年に父親が亡くなり、家業に専念していた2011年3月11日、東日本大震災で被災した。津波が押し寄せる中、指定避難所に向かう老人を助け、間一髪。約450人が避難し、2階の天井まで浸水した気仙沼中央公民館では波が越えてくるかもしれない恐怖に加え、気仙沼湾に漏れた重油に火がつき、猛火に包まれた。それでも、犠牲者は一人も出ず、高齢者や子どもは2日目に救助され、奥玉監督は助け出された3日目に気仙沼中で家族と再会。自宅兼店舗を失い、仮設住宅が建つまで避難所で生活した。そんな最中、1本の電話が運命を開いた。

「部員が増えてきている。手伝ってもらえないか」

 声の主は富士大の青木久典監督(当時)。社会人野球でチームメイトだった。

 2012年、岩手に移り、富士大のコーチに就任。チームには山川穂高(現西武)がおり、外崎修汰(現西武)が入ってきた。多和田真三郎(現西武)、小野泰己(現阪神)、佐藤龍世(現西武)、鈴木翔天(現楽天)をはじめ、社会人野球でも活躍する選手たちがそろうチームを支えた。「選手が良かった。たまたまいいタイミングでコーチになっただけ」と謙遜するが、盛岡中央高監督就任の報道が出た時、教え子たちが「奥玉チルドレンが増える!」と喜んだところに信頼が表れている。

「死ぬと思ったこともありましたからね」1年後、指導者としてグラウンドへ立つ

 17年夏に富士大の助監督を辞めた後、奥玉監督は営業職に就いていたが、昨年1月末、体調を崩した。診断の結果、後腹膜脂肪肉腫の悪性腫瘍。聞いた時は「真っ白になった」。自宅がある北上市や盛岡市の病院に入院。抗がん剤の影響で体に力が入らず、スマートフォンも持てない。数メートルの歩行も息が切れた。「頑張ろうと思う瞬間があれば、ダメだなと思う時もある。そんなの、行ったり来たり」と、闘病生活は苦しかった。

「一番は家族。そして、野球を通じて知り合ったたくさんの仲間たちが言葉をかけてくれたおかげ。待っていてくれている人がいるとか、自分にいいように解釈したのが頑張れた要因ですかね。そして、どうせ死ぬのなら…、死ぬと思ったこともありましたからね。津波の時もそうだし、今回はもっと。手術もできないと言われたこともあったから『いよいよ、やばいな』と思ったけど、できることなら、もう1回、好きなことをやって終わりたいなという気持ちもありました」。

 9月に行われた手術が成功。家族、仲間、そして野球への思いで病気に勝った。1年前には考えられなかった指導者の道。「去年の夏の大会は病院のベッドの上で見ていましたからね。不思議ですよね。今年の夏、指揮を執るんですよ」という笑顔には力がみなぎっている。

 ともに戦う、出会った盛岡中央の選手たちに伝えたいことがある。

 自分が自分の一番のファンであれ――

 人生でも野球でも、落ち込んだり、くじけたりすることがある。でも、自分を否定しなくていい。「自分が自分のことを認めてあげなかったら、周りも認めてくれないよ。自分のことが好きじゃないのに、他の人が自分のことを好きになってくれないよ。自分が自分の一番の応援者でいることが大事」。震災当日、奥玉監督は母校・南気仙沼小の6年生に講演しており、そんな話をしたのだが、あれから8年後、夢だった高校野球の監督として教え子たちに伝える。

「私の病気でいうならば、生存率何%とか、発症率何%とか出てくるけど、人は人であって、私の体は私の体。そういう意味でも自分とどう向き合えるか、何のためにやっているのかが大事なのかなと思う。相手どうこうと考えると無理もするし、背伸びもしたがる。自分が楽しかったか、自分が充実したか。そこを大切にしていきたいですね」

 自分を信じて、気仙沼から大阪へ飛び出した中学1年の秋。数奇な運命をたどる中、常に野球で培ったバイタリティで困難に立ち向かってきた。盛岡中央の選手たちと対面した日、まず話したのはPL学園の部訓でもあった「球道即人道」だった。盛岡中央高硬式野球部のコンセプトを聞き、似ていると感じたからだ。「野球道は即ち、人の道である」と言い、ホワイトボードにペンを走らせた。

「子どもたちが野球をやって良かったなと思ってもらえるようなアドバイスをしていきたい。野球が好きだ、甲子園に行きたい、家族のため、何でもいいんですけど、思いのあるチームを作りたいなと思います。球道即人道は常に私の軸になっているところ。私ができているからやれではなく、それが基本の柱になっているということ。できているかじゃない。私も修行中です」

 春夏7度の甲子園優勝を果たした名門・PL学園は2016年夏を最後に休部、2017年3月に高野連から脱退し、今、その形はない。だが、PL学園の魂は、人の基盤となって、生きている。(高橋昌江 / Masae Takahashi)

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