『El Periodico』は26日、バルセロナのDFクレマン・ラングレのインタビューを掲載した。
フランスでは小クラブのナンシーで育ったものの、リーグアン昇格後半年でセビージャに引き抜かれ、スペインで評価を高めたラングレ。
2部時代には「知る人ぞ知る有望若手」だった彼にはユヴェントスが接近していると伝えられていたが、その取引は実現しなかった。
なぜその誘いを断ったのか?3年の時を経てラングレはそのエピソードについて詳しく明かしてくれたという。
クレマン・ラングレ (ディフェンスは好き?)
「もちろんだよ。好きさ。子供は皆攻撃を好むと知っているけどね。8~10歳くらいなら、攻撃してゴールを決めたいと思うものだ。ましてやライバルにガツンとタックルしたいとは思わない。
しかし、13~14歳になって、他の選手と競争したいと思えば、ちょっと賢くならなければならない。
自分のクオリティが何なのか。才能はどこにあるのか。長い時間トップレベルでプレーするための資質を知らなければいけないよ」
(13歳の時、3つのクラブに入団を断られたよね。しかし17歳でセビージャのモンチSDに誘われる選手になった。4年で何があったの?)
「簡単だよ。練習、練習、そして試合、試合。強いメンタリティを持って挑む。そして少しだけの幸運もね。
鍵はナンシーに加入できたことだよ。常にいつかプロと練習することを考えていた。そうなれるかどうかはわからなかったけど、プロを意識していた。心の全てでね」
(最終的にはそうなれたよね)
「そうだね。ナンシーでは2部リーグでデビューすることもできた」
(セビージャはどうやって君を見つけたの?)
「彼はフランスU-17代表とナンシーでのプレーを見てくれていたんだと思うよ。
そして、両親がセビージャで3日間招待されて、練習場やオフィス、スタジアムを見に行った。ただ、ナンシーがその時は売りたがらなかったんだね」
(残念だった?)
「いやいや。理解したよ。それから僕は仕事によりエネルギーを込めた。プロとしてデビューするために。そして、それは出来た。
2部リーグで10試合に出場した。そしてそれからユヴェントスが僕の父に連絡をしてきて、トリノに向かったよ」
(君も行った?)
「そうだね。僕もトリノに行ったよ。ユヴェントスとエンポリの試合を見た。
ただ、そのときは全てが大きく見えたね。まだ18歳だったし、2部で10試合に出場しただけの男だ。
そこにはボヌッチがいて、キエッリーニがいて、バルザーリがいて…。ユヴェントスと契約することは、とても大きなリスクであるように見えたんだ。その時はね」
(リスク?)
「スポーツ面でのリスクだよ。経済的には、ナンシーでもらっている額を遥かに超えたものだったよ!でもキャリアのリスクだと思った。
準備ができていないなとね。競争することが出来ないなら、プレーすることも不可能だからね」
(それが君の決断?)
「そう、僕だけの決断だ。両親は理解してくれたよ。
ただ、すべてを見たかった。ユヴェントスが提供してくれたものを、全て見たかったんだ。感覚と映像を。そして、ユヴェントスへのリスペクトを。
あのようなビッグクラブにNOと言うことは出来ないものだよ。そのときにユヴェントスと契約することは簡単だった。
でも、それは自分のタイミングではなかった。だからその決断を後悔したことは一度もないよ」
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(ナンシーはそれを理解してくれた?)
「明確にね。唯一の野望を持ってナンシーに戻った。まずは1部昇格。そしてユヴェントスにNOと言ったことは正しいんだと、ピッチ内で証明してやろうとね」