両陛下 普賢岳被災地訪問 励ます姿 今も忘れない 元島原市長 鐘ケ江管一さん

雲仙・普賢岳噴火災害で避難した住民に言葉を掛けられる天皇陛下。右端が鐘ケ江さん=1991年7月10日、島原市立第三小体育館

 天皇陛下が30日退位し、30年4カ月の「平成」の時代が幕を下ろす。憲法が定める「象徴」として被災者や障害者らに寄り添ってきた姿は「平成流」と呼ばれ、感謝の念を抱いている国民も少なくない。雲仙・普賢岳噴火災害で「ひげの市長」として知られた元島原市長、鐘ケ江管一さん(88)もその一人。天皇、皇后両陛下が被災地を訪れ住民を励まされたことを振り返り、「人生で最も感謝、感激した。日本に生まれて良かったと心から思った」と話す。
 1990(平成2)年11月17日、普賢岳は198年ぶりに噴火。間もなく活動は低下したが翌91年2月に再び噴火し、6月3日には大火砕流が発生。消防団員ら43人が犠牲になった。住民は体育館や仮設住宅などでの避難生活を余儀なくされ、心身ともに疲れ果てていた。
 大火砕流から約1カ月後の7月6日、鐘ケ江さんは高田勇知事(当時)から天皇、皇后両陛下の来訪を電話で伝えられた。災害のさなかに天皇が現地に足を運ぶのは戦後初めてで、最初は「こんなひどい時に来るはずがない」と信じられなかった。「宮内庁も危険だと止めたらしいが、どうしても、という陛下の強いお気持ちがあったようだ」と明かす。
 7月10日、両陛下は被災地を訪問。日程は日帰り、側近の同行者は通常の4分の1程度の5人だけ。地元に負担を掛けないようにとの配慮が感じられた。
 島原市の霊丘公園の仮設住宅では、天皇陛下は背広を脱ぎネクタイも外した姿で現れた。シャツの袖をまくり、被災者に気さくに話し掛けられた。多くの被災者が寝泊まりする市内3カ所の体育館でも、両陛下は畳に座る被災者と同じ高さの目線になるよう床に膝をつき、「大変でしたね」「頑張ってください」などとねぎらいの言葉を掛けられた。侍従が「時間がない」と言うのも聞かずに被災者と向き合い、夏の強烈な暑さでしたたる汗をぬぐおうともされなかった。
 無用な緊張を与えないようにしようとの心遣いを鐘ケ江さんは感じた。「『なぜ自分たちだけが…』と絶望する被災者の空気が、両陛下の訪問でがらっと変わり、生きる勇気と希望を与えてくれた。当時のお二人の姿は今でも忘れない」と話す。
 これ以降、両陛下は地震や豪雨などの被災地を何度も訪れた。鐘ケ江さんは「国民と誠心誠意向き合う姿を見ていると、日本に生まれて幸せだと感じる。30年もの長きにわたり国民を見守っていただいたことに感謝したい」と述べた。

雲仙岳災害記念館の展望ラウンジに立ち、天皇、皇后両陛下の被災地訪問を振り返る鐘ケ江さん。後方に見えるのは平成新山=島原市

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