「失われた20年」の代償 次代「令和」への教訓 平成経済30年史 写真特集(2)

リーマン・ショック後の世界同時不況で、日経平均株価は終値で7000円近くまで下落した=2009年3月9日

【写真特集】平成経済の停滞、その元凶は1940年ごろにつくられた統制経済システム「40年体制」を引きずり続けたことだ―。そう唱えてきたのは経済学者の野口悠紀雄氏だ。敗戦を越えて生き続けたこの体制の構成要素は長期信用銀行と都銀を中心とした金融システムと、当時の大蔵省を中心とした官僚システム。「平成の時代はこの体制が終わったことに気付いて、それに代わる新たな体制への改革が求められたときだった。ところが、日本はそのことを直視せず漂流を続け、30年間も没落したままだった」(週刊ダイヤモンド2018年8月25日号 野口氏の寄稿記事)。 

1998(平成10)年 汚職事件で揺れる大蔵省

冷たい雨が降り続く中、ひっそりとする当時の大蔵省。接待汚職など次々に明るみに=1998(平成10)年3月

 高度経済成長、1980年代までの成功体験が「負の遺産」となり、今も日本を「呪縛」しているという考え方だ。日銀や財界と意を通じて、金利や為替レートのコントロール、春闘のときの賃金アップへの働きかけは、政府の市場経済への「介入」と言える。アベノミクスの行方について野口氏は「企業や個人の国家への依存はむしろ強まっているのではないか」「『戦後レジームの脱却』というより『40年体制』への回帰に思える」(2017年2月23日共同通信記事)と語っている。平成経済史の後半を写真で振り返った。

(まとめ 共同通信=柴田友明)

1998(平成10)年 三塚蔵相の辞任

閣議前の橋本首相との会談後、報道陣から質問を受ける三塚博蔵相。一連の大蔵省の汚職事件の責任を取って辞任へ=1998年1月27日、国会

【松下日銀総裁の辞任】

1998年3月、辞任が決まり、最後の定例記者会見をする松下康雄日銀総裁。右は福井俊彦副総裁=日銀本店

1999(平成11)年 日銀のゼロ金利政策

講演でゼロ金利政策の継続を強調する速水優日銀総裁=1999年6月22日午後、東京・内幸町の日本記者クラブ

2001(平成13)年 小泉政権の「聖域なき構造改革」

政府の経済財政諮問会議に臨む小泉首相(左)と竹中経済財政担当相=2001年6月21日、首相官邸

2005(平成17)年 郵政解散→自民党の大勝

郵政民営化関連法案を閣議決定し、厳しい表情で首相官邸を出る小泉首相=2005年4月27日夜 東京霞が関の郵政公社(当時)

2006(平成18)年 ライブドア、村上ファンド 事件

六本木ヒルズ(東京都港区)には当時ライブドア本社や村上ファンドのオフィスがあった。左は堀江貴文社長逮捕を伝える号外を読む女性=2006年1月23日午後9時20分、東京都港区(

2008(平成20)年 リーマン・ショック

リーマン・ショック後の世界同時不況で、日経平均株価は終値で7000円近くまで下落した=2009年3月9日

2011(平成23)年 東日本大震災と福島第1原発事故

2011年3月24日、小型の無人飛行機が撮影した福島第1原発の3号機(エア・フォート・サービス提供)

2012(平成24)年 第2次安倍内閣発足

第2次安倍内閣発足 首相官邸に入る安倍晋三首相=2012年12月26日午後4時すぎ 日銀総裁に就任し、金融政策の方針などについて記者会見する黒田東彦氏=2013年3月21日、日銀本店

2016(平成28)年 日銀のマイナス金利政策

金融政策決定会合後、記者会見する日銀の黒田総裁=2016年1月29日午後、日銀本店

2016(平成28)年 東芝の粉飾決算

決算発表後の記者会見で、これまでの決算遅延と監査法人の適正意見が付かないままの発表となったことについて謝罪する東芝の綱川智社長(当時)=2017年4月11日午後、東京都港区の本社

© 一般社団法人共同通信社