「元官僚」で「上級国民」だから私刑に処するのか 71歳男性が90歳女性を轢き殺した裁判を思い出した池袋の母子死亡交通事故

長男にともなわれながら法廷にやってきた田代正明(仮名、裁判当時71歳)の表情はうつろで、顔色も真っ青でした。彼が起訴されていた罪名は過失運転致死、運転中の不注意で起こした事故で人を死なせてしまったのです。

自営業を営んでいた彼は商品の配達を終えて店に戻るために車を運転していました。助手席には長男が乗っていました。荷物の積み降ろしが長男、運転は父親、この役割分担でこの親子はずっとやってきたのです。その日まで、大きな事故は一度もありませんでした。

「助手席で取引先とメールをしていました。その時に父が『おっ』と声をあげて、次の瞬間何かに接触したような音がしました。父は急ブレーキをかけましたが…車から降りて後ろを見たら被害者の方が倒れていました…」

証人として法廷で話していた長男の声は終始震えていました。

「『年齢も年齢だから運転をやめなきゃいけない』と父も話していました。もし自分が運転していたら防げたかもしれません。もしメールなんてしていなければもっと早く『危ない』と声をかけれたかもしれません…」

参考資料:90歳女性が死亡事故 調べてみたら我が国の75歳以上運転免許保有者数は「北海道の人口」並 | TABLO

事故後、すぐに二人は救護に向かいましたが、被害者は搬送された病院で亡くなりました。

「事件現場は学生が多くて、よく信号無視をしている学生がいるので左右に気を取られていて…被害者に気づいてもすぐには反応できませんでした」

彼はうなだれながら話していました。今後、もう二度と車の運転はしないそうです。事故後、彼は被害者のお通夜、葬式に参列しその後も何度も遺族に謝罪をしに行きました。

被害者は93歳のおばあちゃんです。被害者はその日、ガンの治療を終えて退院し家に戻る途中でした。被害者の娘さんは頭を下げる彼に何も苦言は言いませんでした。むしろ彼の体調を気遣っていました。

「お互い年を取ってるから仕方ないです。運が悪かったんです。それより体調に気をつけて、元気を出してください」

そして裁判所にも高齢の被告に対して寛大な処分を求める嘆願書を提出しました。怒りや悲しみ、憎しみがなかったはずはありません。それでも、遺族は二人に対して責めるような言葉はかけませんでした。

記憶に新しい池袋の事故(写真はイメージです)

先日、池袋で二人が亡くなる痛ましい事故が起きました。運転していた87歳の男性が逮捕されていないこと等に対して世間から批判が集まっています。

逮捕要件を満たしていない人は逮捕されません。逮捕要件を満たしていない人を警察が逮捕するなど人権侵害であり許されることではありません。冒頭で取り上げた過失運転致死の被告も逮捕されていません。彼は元官僚でもないですし勲章もありません。「上級国民」ではない人です。過失運転致死の被告人が逮捕されないことは、特に珍しいことではありません。

池袋の事故では被疑者の過去や住所、電話番号までネット上で晒されました。ここまで来ると完全に私刑です。また、ベストセラー作家までが私刑に便乗して見るに耐えない罵詈雑言を書き散らしています。作家を名乗っていながら、重大な事故を起こしてしまった人やその家族が抱える自責の念がどれほど重たいものなのか想像もできないようです。

被害者遺族のことを考えれば憤りを覚えるのは仕方ないかもしれません。しかし、それは被疑者に私刑を加えていい理由にはなりません。彼らは一体何を思い上がって何を根拠に人を裁いているのでしょうか。

「死んで詫びろ」

「自殺しろ」

「こんなクソジジイはど突きまわしてもいいよな」

こんな言葉が飛び交っています。

過失運転致死の被告人には時折本当に自殺しかねないような精神状態になっている人もいます。もし万が一、被疑者が自殺したとしたら…この言葉を書き込んだ者たちに一人の人間の死を背負って生きていく覚悟はあるとは思えません。

言葉は時に人を殺すことができる力があります。覚悟もなしにデマに乗せられ感情に振り回されて言葉を紡ぐ人間に、言葉を使う資格などありません。

参考記事:徐々に明らかになり始めた吉澤ひとみ容疑者の行動 被害女性の「顔を縫った」ツイートが発覚 | TABLO

池袋の事故の報道を見て、はじめに思い出したのが冒頭の被告人の表情でした。その表情から、人の命を奪ってしまった者が抱える罪悪感の大きさがうかがえました。

今、ネット上で私刑を加えている人たちはどうせ時が経てば溜飲を下げて今回の事故のことなど忘れるのだと思います。しかし、被疑者は今後ずっと、二人の命を奪ってしまった自分の罪と向き合って生きていきます。被害者遺族の悲しみに寄り添うことは大切ですし、被疑者が今後歩んでいく道の険しさを慮ることも忘れてはいけないはずです。(取材・文◎鈴木孔明)

© TABLO