『トリニティ』窪美澄著 女の全部がここにある

 この本には、女が人生で味わうすべてが詰まっている。孤独、連帯。恋情、倦怠。妥協、研鑽。嫉妬、羨望。許容、不寛容。そして、「一般的に幸せとされているもの」ではなく、他にない自分の幸せを求める心と、容赦ない現実。

 年老いたイラストレーターの死から、物語は始まる。若い頃、彼女と同じ雑誌の編集部で、幸福や創作意欲や悩みや迷いを分かちあった、フリーライターと雑用係。3人の女性はそれぞれの選択をし、ある者は主婦になり、ある者は仕事を選び、自分の欲しいものを求めてもがく。

 1960年代。世の中が目に見えて変革した時代、彼女たちは職業人としての青春を過ごす。自分が書きたい(描きたい)ものと、人から求められるもの。そのギャップにもがき、やがて自分の進路を見定めていく。この日々は、ずっと続くのだと彼女たちは信じている。仕事の依頼は来続けるし、自分はこうして求められ続けるのだと。とても身に覚えがある。20代から30代への差し掛かり。出会うものすべてが自分には真新しく、それは自分が発見したものだと信じて疑わない。この世界は、自分が切りひらく。戦う。欲しいものは手に入れる。

 次第に、景色は変わってくる。自分の幸せに「家族」とかが関わってくると、自分の思う幸せの方向へと身軽にジャンプすることが、なかなか、かなわなくなってくる。自分の人生がそんなふうになるなんて、思いもしなかった。愕然とする彼女たち。

 胸が痛むのは、「自分の幸せ」を追い求める主人公たちが、巻き起こるあれこれを拒まず受け入れるしかないことである。フリーライターは、精彩を欠いていく夫に何も言うことができない。イラストレーターは、自分の忙しさを気にかける母親に、子育ての醍醐味を奪われながら、何も言い出せない。専業主婦になった雑用女子は、才覚を発揮して生きる彼女たちへの羨望を胸から追い出すことができない。そう、「言い出せない」で彼女たちの人生はできている。なぜ、言い出せないのか。今ある幸せ度が30%であれ40%であれ、それを手放すことができないからである。0からやりなおすということが、ある程度の成功を手にしてしまった彼女たちには、とても困難で悩ましい。

 仕事に伴う栄光と、結婚で得られるパートナーの存在、そして子育ての充実感。彼女たちは、その、どれもが欲しい。どれかを捨てなくてはいけないなんて、どこの誰が決めたのか。男たちは普通にそれらを享受しているではないか。

 女たちは疎遠になっていく。かつて通じていた言葉や思いが通じなくなっていく。「本物の友情は一生続くもの」なんて甘言を女たちは信じちゃいない。若さや新しさを称賛されてきた仕事においても、次第に彼女たちは「古い側」に立たされるようになる。あんなに恋い焦がれた夫や子どもたちも、我が手を離れていく。その先に待っている、孤独。

 時代が平成に移ってからの、女たちの道のり。「女の一生」を描いた作品は数あれど、本書がそれらと一線を画しているのは、劇的な何ごとかが起きた先にも、人生は続くという点である。ああ、そうだ。人生は続く。人が「余生」と呼ぶ長い長い時間を、私たちは、どう生きることを選びとるのだろう。

 それでも世界は続いていく。誰かが倒れても、次世代の若者たちが意気揚々と、世界を我がものにしようと羽ばたいていくのだ。

(新潮社 1700円+税)=小川志津子

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