人工知能のきっかけに? 18世紀の哲学者ヒュームの功績

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連載第4回目では、近代フランスの哲学者デカルトの「我思う、故に我在り」とプログラミングとの関係をとりあげました。今回(第8回目)は、このデカルトの考えを受けて、更にもう一歩、「疑う」ことを推し進めた18世紀スコットランドの哲学者ヒュームの「懐疑論」からプログラミング、そして人工知能について考えてみたいと思います。

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HUME=高次統合メタ環境

ヒュームとプログラミングには、直接的な影響があるわけではありません。ただし、スコットランドにある2つの大学(セントアンドルーズ大学とヘリオットワット大学)では、「ヒューム」と名付けられたプログラミング言語の開発が2000年より続けられており、今日に至っています。この「HUME」というのは、「高次統合メタ環境」を意味する英語(Higher-order Unified Meta-Environment)の頭文字をとったもので、実際のところ、かなり高度な設計がなされています。

少なくともスコットランドでは、かつての偉大なる哲学者の名前がプログラミング言語の名前に使われるほどに、両者にはつながりがあるわけです。

一方、人工知能(特にディープラーニング)の設計原理に大きな影響を及ぼした「ベイズ理論」は、ヒュームの主張に対する反論として生まれた、と言われています

懐疑論の意味

「懐疑論」は、「この世のすべては疑わしい」とみなします。ただしヒュームの場合、「確かなものなんてない」ということを強調するだけではとどまりません。私たちが考えたり、言葉にしたりしていることは、最初から「確かなもの」があってそこから積み重ねられてきたのではなく、あいまいなものが雑然と集まった結果、人間の都合で「確からしい」としている、とみなします。

これは今で言えば、ある種の確率論です。というのは、「あった」「なかった」そのものを問うのではなく、「あった」か「なかった」か、その証拠や証言を集め、確率としてどうなのかを考えるからです。

そもそも「人間」の定義が変わっています。ヒュームから見れば人間は、はっきりとした輪郭をもった、固定したものではなく、次々と変化し続けるものです。今風に言えば、さまざまな情報をセンサが受け取り、絶えずその情報にもとづいて変わり続ける流動的集合体(ヒュームの言葉では「知覚の束」)にほかなりません。

つまり「疑わしい」とか「確からしい」とか、そういう「問い」に答えられるような絶対的な「解」は存在しないということと、それから、ほぼ常に繰り返されることは「確からしい」ものとして受け取ってもよい、という2つの考えがヒュームによってはっきりと表されました。

知性と人性

ヒュームは「言葉」を細かく分けていったときに残る基本単位を「観念」と呼びました。そしてこの「観念」が生まれてくる源を、日ごろ行われている「印象」としました。「印象」は、「感覚」(五感)を通じて獲得されたものを指します。厳密には、直接的に得られたものを「感覚」と言い、若干の吟味があるものを「反省」と言いますが、ここでは合わせて「感覚」と理解しておいて差し支えないでしょう。

ヒュームにとって「観念」とは、神からやってきたものでも、人間にもともと備わっているものでもなく、「印象」を通じて、後天的に獲得されたものです。「観念」がいくつも蓄積されてゆくなかで次第にそれぞれがつなぎ合わさって(=「観念連合」)、「知識」もしくは「知性」(=悟性)と呼ばれるものがつくられてゆきます。

「知識」がつくられる過程では、観念どうしは、

に基づいて「連合」します。「類似」とは、時空と無関係に似ていること、「近接」とは、時間と空間において接近していること、「因果」とは、原因と結果としてつながっていることです。

特に、3の「因果」が、何ら絶対的なものではなく(歴史的に受け継がれてきた)主観的「習慣」に基づいており、要するにひとつの「信念」(思い込み)にすぎない、とヒュームは考えました。つまり、絶対に正しい「観念」や「知識」、永遠に変わらない普遍的な「観念」や「知識」というものはありえない、と断定していることになります。

プラトンのような、人間がつくりだしたものはみな偽物で、「イデア」のような本物は別のどこかにあるはず、という考えとはまったく対立します。

この「人間的自然」さえ理解できれば、道徳や政治経済などはもちろん、数学や自然学、自然宗教も、たやすく解明できる、とヒュームは考えました。実際にこの定式は、以降、他の哲学者や他の学問に大きく影響を与えます。

「人間的自然」をあらゆる学問の「拠点」に据えるということは、学問のみならず私たちの意識を変えるため、とてつもなく大きな変化でした。人間が自ら生み出しているような道徳や政治や経済はもちろんのこと、そもそもの「世界」や「自然」そしてさらには「神」さえもが、「人間的自然」が生み出したものだとみなすことになるからです。

人工知能とヒューム

興味深いことに、人工知能(特にディープラーニング)におけるもっとも重要な考え方である「ベイズ理論」は、ヒュームの「奇跡論」に対する反論から生み出されました

「奇跡論」は、ヒュームが、キリスト教を信仰している人たちを怒らせるかもしれないと考え、一度は、主著である『人間知性論』から削除した、いわくつきの箇所です。後に「奇跡について」として『人間知性研究』に収めるのですが、ここでヒュームは、イエス・キリストの復活について、「それを見た」という証言がきわめて少ない以上、それは「確からしくない」と書きました。「証言」そのものの真偽を問うのではなく、その「証言」の数や確率を問うたわけです。

ベイズという人は、今でこそ先端的な理論を提供した人物としてもてはやされていますが、当時(つまり18世紀後半)、ヒューム流の確率論に異議を唱えたのは、あくまでも牧師の立場から、「奇跡」の考えを擁護するためでした。

「ベイズ理論」とは、「あり得る」ことが一定程度集まれば、充分に信ぴょう性が担保されるというものです。「ある」か「ない」かといったはっきりとした結果に基づいて確率を推定するのではなく、もっとあいまいなものであっても、それなりに数を集めれば、充分に的確な判断ができる、と主張したのです。

科学者に対して、幽霊やUFOがこの世に存在するか否か、と問えば、どんな目撃話もそれほど信ぴょう性がないため、「それは存在しない」と言い切られてしまいます。それと同じで、「奇跡」は、ヒュームが行ったように、証言が「あった」か「なかった」といった区分けを前提とした議論では、成立しません。そこでベイズは、「あったかもしれない」という証言の発生確率を求めることにしたのです。「あったかもしれない」という情報は、たったひとつでは、曖昧でとても弱く、「そんなのウソだ」と一蹴されますが、一定数以上の証言があれば、それは「あった」ことにかなり近づいている、とベイズは考えたのです。

今、コンピューターの世界では、量子コンピューターの実用化が近い将来確実にやってくるという話題でにぎわっています。ヒュームとベイズの違いは、まさしく、これまでのコンピューターと量子コンピューターの違いになぞらえることができるでしょう。言うなれば、両者は宗教上の対立がありましたが、理論上は、コンピューターを単なる与えられたデータの「計算」を行うばかりか、確率処理を行い「推論」する手順が組み込まれるようになるうえで、大きな貢献をしたと言えます。「推論」それは「判断」であり「思考」でもあるのです

なお、ベイズ理論は「Python」「Stan」「Pyro」といったプログラミング言語で特に大いに活用されています。

ヒューム David Hume 1711-1776

  • 丸顔でふっくらとした肖像画が残されているが、若い頃は細身だったと言われている
  • 哲学書は売れなかったが「イングランド史」という歴史書はベストセラーになる
  • この世の「すべてが疑わしい」という「懐疑論」を展開する
  • 「確かなこと」は最初からあるのではなく、人間がつくりだしていると考える
  • 人工知能(ディープラーニング)の基礎にあたる「ベイズ理論」が産み出されるきっかけをつくった

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