「引き揚げ者」の子が守るもの 木造住宅の明け渡し訴訟で

「引揚者東貝塚住宅」住人で自治会長の村崎太さん。左は引き揚げ者だった母節子さんの遺影=2019年4月、大阪府貝塚市

 「引き揚げ者住宅」をご存じだろうか。敗戦後、住宅難に苦しんでいた旧満州などから引き揚げてきた人たちのため、国の援護事業として全国各地で建設された。その一つ、大阪府貝塚市の「引揚者東貝塚住宅」を巡り、府が住人で自治会長の村崎太さん(51)に建物の明け渡しを求め裁判で争いになっている。府は老朽化が激しいとして取り壊す方針だが、村崎さんは「ここで生まれ、家族と50年余り暮らしてきた。思い出が詰まった家を壊されるのは耐えがたい」と立ち退きを拒んでいる。取材を通して浮かび上がったのは、戦争で一度〝ふるさと〟を失った家族ゆえの、ふるさとへの強いこだわりだった。

(共同通信=大阪社会部・武田惇志) 

 ▽満州へ 

 JR阪和線東貝塚駅から南東へ、徒歩10分ほどで小高い丘の上に現れる古い木造家屋が、村崎さんの住む東貝塚住宅だ。

 旧厚生省援護局の資料などによると、引き揚げ者住宅は1946~54年度、全国で約7万9千戸が建てられた。東貝塚住宅は1951年に50戸、府が建設した。

 村崎さんの祖父は鹿児島県出身で、戦前は大阪市内の郵便局で働いていた。その後、関東軍の経理として召集されて一家で旧満州へ移住、ハルビンで暮らした。

 敗戦直前、村崎さん一家は45年8月9日のソ連参戦の情報をいち早く知った。いつも静かで温厚な性格だった祖父が「急いで荷物をまとめろ」と血相を変えて家に飛び込んできたという。軍のトラックに食料を満載して、ハルビン市内にあったコンクリート3階建ての建物へ一家で身を潜めた。

 「ソ満国境地帯にいて、逃げる余裕がなかった満蒙開拓団に比べるとまだ好条件だったろう」と村崎さんは言う。それでも建物では多くの乳児や老人が亡くなっていた。一家は1年ほど後に引き揚げることができたが、曽祖母は祖国の地を見ることなく、引き揚げ船で病死した。

 村崎さんの母節子さんは生前、引き揚げの苦労について言葉少なで、むしろおもしろおかしく語るようなところがあった。満州での生活についても「異文化に触れられて良かった」と懐かしんでいたという。一方で、引き揚げ世代の記録を残そうと村崎さんが住民に実施したアンケートでは、ソ連兵による暴行や略奪に「怖くて、生きた心地がしませんでした」と記していた。 

自宅を見上げる村崎太さん=2019年4月、大阪府貝塚市

 ▽貧しさの中で 

 帰国した祖父だったが、すでに郵便局に自分の席はなく、貝塚市内の紡績会社に就職。会社のあっせんで木造平屋、家賃360円の東貝塚住宅に移り住んだ。「やっとふとんの上にねることが出来ました とても嬉しかったです」と節子さんは書いている。

 電気も水道もなく、水は近所の井戸を借り、住民自ら下水を引いた。タイピストになるのが夢だった節子さんだが、女性の仕事口はなく、叶わなかったという。昼間は紡績会社で働き、夜は内職をする暮らしが続いた。

 引き揚げ者住宅は、周囲からはよそ者が住む貧しい集落と蔑視された。「引き揚げ者住宅」とは呼ばれず、昔、周辺にあった寺にまつわる地名から「海岸寺山」と名付けられていた。今も自治会名は「海岸寺山自治会」。村崎さんは中学時代に、格安の家賃の家に住んでいることを同級生からやゆされた記憶がある。

  ▽ふるさと

  府は、老朽化が進み地震などで倒壊の危険があるとして、2012年から近隣の府営住宅へ転居するよう住民と交渉を開始した。節子さんは「住み慣れた家を離れたくはない」と猛反発。府の職員に「もう戦後ではない。目的を達したので移転してほしい」と言われ、「(あなたは)戦争も経験してへんのに、なんでそんなこと言われなあかんの」と詰め寄ったこともあったという。

 住宅の住民にはおかずを分け合うなどの助け合いの文化があった。引き揚げ者同士、苦労をわかり合える友人の間柄でもあったのだ。満州から引き揚げた別の住民女性(故人)はアンケートに「他所に行く事は出来ません。ここが『ふるさと』です」と書き残していた。しかし当時、13世帯あった住民らは転居や死亡で次第に減っていった。

 昨年1月、節子さんが86歳で亡くなると、村崎さんは「居住資格を失った」として府に立ち退きを求められたが、応じなかった。府は今年1月、不法占有を主張して大阪地裁に提訴した。村崎さん側は、府の規則では引き揚げ者の家族にも居住資格があると解釈できる、と反論している。

 「府は更地にすると言うだけで無計画」と批判する村崎さんだが、「友達からは、なんでそんなボロ家にこだわるんやって聞かれるんです」と打ち明け、続けた。「正直、自分でもなぜここまでこの家にこだわるのかが分からない。ただ、今の自分があるのはここで生まれ育ったおかげだから。引き揚げ者の息子である私にとっても、ここがふるさとなんです」

  ▽歴史の地層

  戦後、海外から約660万人が引き揚げたとされ、かつて全国に建てられた引き揚げ者住宅。公営住宅として地方自治体に引き継がれたり、住民に払い下げられたりし、木造から鉄筋コンクリートへの建て替えも進んだ。こうした経過から、住民でも自宅がかつて引き揚げ者住宅だったことを知る人は少ないという。

島村恭則教授(2019年4月撮影、大阪市北区)

 関西学院大の島村恭則教授(現代民俗学)は「引き揚げ者の足跡は見えづらくなっているだけで、実は日本の至る所で地層のように堆積している」と話す。島村教授は引き揚げ者や在日コリアンら差別されて下層社会を生きた人々の足跡を探し、全国をフィールドワークしてきた。「日常的な風景でも、歴史の地層を1枚ずつめくっていけば彼らの姿が見えてくる」

 例えば、〝ハマっ子〟に親しまれている横浜市中区のショッピングセンター「桜木町ぴおシティ」。実は引き揚げ者が相互扶助のために設けた百貨店がルーツなのだという。横浜支局が初任地だった筆者にとっては驚きの事実だった。 

 ▽消えゆく住宅 

 昔の建物のまま、引き揚げ者による生活が続いてきた東貝塚住宅。府が立ち退きを迫る中、今では3世帯5人が残るだけとなった。

 全国的に木造の引き揚げ者住宅は、消えゆく運命にあるのかもしれない。福岡市中央区の「城内町住宅」や仙台市青葉区の「追廻住宅」は、自治体による周辺の公園整備で、住民の移転が進む。

 城内町住宅の峯崎嘉洋自治会長(77)は「往時は最大約190世帯あったが、市の公園計画で多くが移転し、約40世帯が残るのみ。かつて住民には土地を国から払い下げてもらおうとの期待があったようだが、実現しなかった」と説明する。

 島村教授は「引き揚げ者住宅にはあまり知られていない引き揚げ者の戦後の労苦が刻まれていて価値があり、生活史や建築史から見て重要な史料と言える。歴史公園にしたり、博物館の敷地などに移築したりして保存するのが望ましい」としている。

© 一般社団法人共同通信社