童夢-零 | 童夢 少年たちの夢!日本発の和製スーパーカー製造プロジェクト

ゴールデン旧車倶楽部

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1978年のジュネーブ・ショーで発表、日本中を熱狂の渦に巻き込んだドリームカー

・モデル名 :童夢-零
・世代/形式:-
・メーカー名:童夢
・時期   :1978
・製造台数 :1台(ショーモデルのみ)
・写真提供 :講談社BC ベストカーアーカイブス

スーパーカーブームのさなか、少年たちの夢が立ち上がった

1970年代半ば、日本では、73年に登場したフェラーリ356GT4 BBや翌74年のランボルギーニ・カウンタック、75年にデビューしたポルシェ930ターボなどスーパーカーブームの真っ只中だった。
その輸入欧州車中心のスーパーカーに対抗すべく、日本でもスーパースポーツ製作計画がいくつか存在した。「童夢-零」(ドーム・ゼロ)プロジェクトは、その筆頭だった。
計画がスタートしたのは、ベトナム戦争においてサイゴンが陥落、戦争が終結し、史上初めてアメリカが戦争に敗北した1975年のことである。

このプロジェクトは京都でレーシングカー・コンストラクター「マクランサ」を営んでいた林みのる氏が立ち上げた計画だ。
みのる氏の従兄弟である林将一氏が運営する「ハヤシレーシング」が製造した量産車向けアロイホイールがアフターマーケットでヒット作となり、将一氏が準備資金を投資し、「童夢-零」はハヤシレーシングの一部門として開発がスタートしたという。

レーシングカー生産の精鋭が集結してプロジェクトスタート

当時、日本のモータースポーツ界は海外製マシンに席捲され、多くの国内レーシングコンストラクターが挫折し始めていた時期だった。その鬱憤を晴らすためか、1975年に立ち上げた「童夢-零」計画には日本のレース界を代表する開発メンバーが参加した。ボディデザインは、林みのる氏とムーンクラフト代表の由良拓也氏、ボディモノコックはレーサーモノコック設計会社を主宰する三村建治氏など、蒼々たるメンバーが集結したのだ。

1978年初頭、製作開始から1年3カ月ほどでプロトタイプ「童夢-零」が完成。同時に、林みのる氏が代表を務める株式会社童夢が設立された。

「童夢-零」Specification概要

ボディはFRPセミモノコックで、当時としては最先端の東京大学の風洞実験室を使った風洞実験に基づいて設計されCd値0.37という優れた数値をマークした。
キャパシティ2.8リッターで最高出力145ps/5200rpm、最大トルク23.0kg.m/3600rpmというアウトプットを発揮する日産製2.8リッターのL28型直列6気筒エンジンをミッドシップ搭載。
従ってスペックだけを概観するなら、「童夢-零」は特別なチューニングを受けていない。
が、燃料を供給するキャブレターはソレックス3連装として圧縮比は9.0を得ていた。セドリックなどが搭載した標準のL28型がシングルキャブレターで圧縮比8.3だったので、「童夢-零」のエンジンはレスポンス重視の仕様となっていたことがわかる。

組み合わせたギアボックスはZF製5速マニュアルトランスミッションだが、後述するコンパクトなボディのなかでペダルオフセットを嫌い、適正なドライビングポジションを得るため、右ハンドルにも拘わらず、右手で操作する右シフトレバーという特異なレイアウトとなった。

林みのる氏「小さなクルマじゃないと駄目なんだ」

ボディ寸法は全長3980mm×全幅1770mm、ホイールベース2400mmで、スーパーカーとしてコンパクトクラスに属する。
大きさを分かりやすく説明すると、全長は現行のマツダ・ロードスター、車幅は現行のトヨタ86/SUBARU BRZとほぼ同じということになる。
この車両サイズは、設計者である林みのる氏が常々語っていた「ボクは小さなクルマじゃないと駄目なんだ」、という言葉の具現化といえる。

設計に当たって林みのる氏がイメージしたのは、日本の峠道。
峠の狭隘な道は小さなクルマでなければ、気持ちよく走れない。
林氏と同志社中学時代からの盟友で、日本のレーシングドライバーの草分け的存在、トヨタのワークスドライバーでもあった現:童夢顧問の鮒子田寛氏と若い頃、競うように峠道を飛ばしていた林氏にとって、「小さなクルマ」であることは自明のことだったのだ。

シザーズドアはスーパーカーの証

デザイン的には、ランチア・ストラトスのプロトタイプであるストラトス・ゼロやロータス・エスプリを思わせる直線基調のウェッジシェイプ。シザーズドアを採用した。
その車高は、低く構えたプロポーションで有名なロータス・ヨーロッパ・スペシャルの1080mmより100mmも低い、980mmという究極のローシルエットが印象的なクルマとなった。

サスペンションは前後ともにダブルウイッシュボーン+コイルスプリング。サスを支えたダンパーはカヤバ製とした。ブレーキは前ベンチレーテッドディスク、後ソリッドディスク。
タイヤは、前185/60VR13、後255/55VR14とかなり極端な前後異径であった。前輪を極端に小さな径としたのは、ウエッジシェイプした低いフロントフェンダーに収めるための苦肉の策だと言われている。

1978年春、ジュネーブショーで注目される

このクルマを童夢は、同年3月に開催されたスイス・ジュネーブモーターショーに出展、世界初公開した。その「童夢-零」の展示場所は、それほど広くないジュネーブショー会場の片隅だったにもかかわらず、プレスデーでの反響が大きく、日本の無名のメーカーが送り出したスーパースポーツの処女作が注目を集める。
しかも、市販価格も発表していない段階で、ブルネイ王室、ジャッキー・チェンなど映画スター、各界の富豪から20件ほどの予約注文が入ったと伝えられる。

しかし1970年代といえば、排気ガス規制や安全基準の強化など数々の規制が始まった時代だ。「童夢-零」は、当時の運輸省(現在の国土交通省)からはまったく相手にされず、型式申請さえ受け付けて貰えなかったと言われる。

そこで童夢は、国内での認可は断念。規制が緩いアメリカでの認可を目指す。日本では輸入車として販売する計画が進められ、現地法人まで作り、「童夢P-2」へと進化。アメリカではかなりテスト&開発が進んだが、許認可の問題というよりも性能が確保できず、結局は頓挫してしまった。

童夢は、現在もフォーミュラカーをはじめとするレーシングカーの開発を積極的に行い、スーパーGTに参戦するなど、モータースポーツ界で活躍している。そのガレージに半世紀を過ぎた今も「童夢-零」と「童夢P-2」が仲良く棲んでいるという。