【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】 No.174

▲江戸城天守台(東京都千代田区)

(5月1日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

解任

 閏4月29日、田安亀之助の徳川家相続が通告された。亀之助は、後の徳川家達である。

 5月1日には、三条実美が鎮将府を設置すると、民政、治安権限を旧幕府側から奪取し、彰義隊による江戸市中取締の任を解いた。

 だが、この通告は彰義隊の怒りに拍車をかけた。先にも述べたが、それまで、江戸の町では、東征軍の兵士と彰義隊との間で衝突が続いていた。

東征軍と彰義隊

 次のような話が伝わる。

 ある日のこと、浅草の雷門の近くで、東征軍の一隊と数十人の彰義隊士が出くわした。

 そこで、東征軍の先頭が、「徳川武士箱詰にして吉原通いがしてみたい」と声をはりあげると、続いて兵士らは、「シショ来っせい、失敬きわまる」とはやし立てながら歩いて来た。

 これに対し彰義隊士たちは、「来たる官軍首斬りつくし五月葵の花が咲く」と声高々に歌いはじめ、さらには、「シショ来っせい、失敬きわまる」と、相手を真似て歩いて来た。

 その後、双方の隊列は、接近し、肩と肩が触れようとしたが、この日は何事も無かったという。

(続く。次回は5月15日付に掲載します)

© 株式会社サンデー山口