生きて カネミ油症51年の証言 矢口哲雄の闘い・4 国の請求で地獄に

カネミ油症五島市の会結成記念のシンポジウムであいさつする矢口=2005年10月9日、同市福江総合福祉保健センター

 カネミ油症事件は、裁判がほぼ終結した1987(昭和62)年ごろから、ほとんど報道されなくなった。それから10年、民間療法で病と闘っていた奈留島の70代の矢口哲雄と家族にも国の仮払金返還の督促状が届いた。そして97(平成9)年、国は元原告たちに一斉に調停を申し立てた。
 「軍隊では国に命を捧(ささ)ぐことをたたき込まれた。しかし、国民が困れば助けてくれるとも思っていた。まさか国が被害者に金を返せ、死んだ人の分も返せと言ってくるとは。国は被害者を地獄に突き落とした」
 国の借金を残して死ねば家族や子孫に請求が回る。矢口ら家族はそれぞれ、分割返還するようになった。
 国の請求は油症を秘匿して生きる被害者たちを追い詰めていった。生活を破壊し、離婚や自殺に至るケースも。もちろんそれまでに若くして、あるいは人生半ばで亡くなった多くの被害者がいた。その無念を思うと矢口はいつも涙が出た。油症被害者は、国や企業、司法、報道を含む社会全体から、見捨てられたのだ。
 2000年、矢口は一人の女性の訪問を受けた。油症のことをしつこく聞く。「目的は何だ」。名刺にはこう記されていた。「止めよう!ダイオキシン汚染・関東ネットワーク」
 ごみ焼却などで発生するダイオキシンの問題に取り組む東京の市民団体だった。メンバーは幾度も五島を訪れて聞き取りを進め、健康被害の重篤さ、貧弱な救済策、仮払金問題など人権侵害の実態に驚いた。
 そういった動きの中、坂口力厚労相(当時)が油症の主因をPCBが熱変化したダイオキシン類と認めたのは01年。翌年、市民団体はカネミ油症被害者支援センターを設立した。「平成の大合併」で五島市が誕生した04年、ようやく診断基準にダイオキシン類の血中濃度が追加された。
 玉之浦と奈留の患者会は05年、カネミ油症五島市の会を結成。81歳の矢口が会長に就いた。「いまさら救済実現は難しいだろう」。そう思いながらも支援者の熱意にほだされた。事務局長は44歳の次女敏子が引き受けた。同会は市長や国会議員らに直接会い、苦しい状況を伝え始めた。
 矢口は市への要望でこう訴えた。「自分が油症とも知らず恨むことも知らず亡くなっていった人々がいる。残された家族は貧しく、苦しく、世間に訴えることもできず隠してきた。子らが安心して治療を受けられるよう取り組みたい」。動きだした救済運動の先頭に矢口は立った。

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