生きて カネミ油症51年の証言 矢口哲雄の闘い・5完 まっとうな人生 求め

 2007年6月、カネミ油症の仮払金返還免除特例法が成立した。83歳の矢口哲雄は五島市で記者会見し、「この運動をさらに押し進め、被害者が病気から解放され、まっとうな人生を送れるようにしたい」と述べた。
 仮払金という重しが一つ外れたのは確かだった。だが、その重しは油症事件から派生した「副産物」でしかない。医療費の公的負担、認定制度の見直し、ダイオキシンによる次世代被害の問題など解決すべき本筋の課題は山積し、本格救済の道は依然見えなかった。
 09年の政権交代で動きが出てくる。与党民主党が救済法の検討を進め、野党自民、公明両党も活発化。矢口らは幾度も上京し、国会議員に公的救済を訴えた。だが官僚の「国に責任はない。救済は原因企業が担うべき」という論理に阻まれ、法案は浮沈を繰り返す。結局、国会会期末が迫る土壇場で、医療費の公的負担などは見送られ、骨格的な救済法が12年8月成立。「満足できないが、のむしかない」と矢口は語った。
 同法に基づき、救済策の実現は国、カネミ倉庫、被害者団体による定期的な3者協議の場に移されたが、国や同社は新たな救済に消極的だ。また、新認定被害者が同社に損害賠償を求めた訴訟は、不法行為による賠償請求権が20年で消滅するとした民法の「除斥期間」が採用され原告敗訴。振り返れば司法は、油症被害者に対して冷酷な判断を繰り返してきた。
 15年8月、91歳でカネミ油症五島市の会(現カネミ油症被害者五島市の会)の会長を退任。漁師として生き、家族を守り、国や企業に償いを求めてきた矢口は今年2月24日、95歳で亡くなった。民間療法を駆使して生き続けること自体が闘いであり、独自の健康法の有効性の証明でもあった。
 矢口は生前、こう語っていた。
 「多くの被害者が死んだ。また死に至らなくてもそれぞれ苦しんできた。一般の人には分からないだろうが、私たちは一生油症と向き合って暮らさないとならない。国の経済優先の政策で事件は起き、被害者はほったらかされてきた。国は責任がないと思っているとすればそれは違う。やはり国は国民を守る責務がある。そして被害者自身も苦しんだことを話し、行動を起こすことが大事だ」
 昭和、平成を通じて油症からの解放を目指した矢口の思いは、令和の時代へと引き継がれる。

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