【レジェンド語る】権藤博氏「抑えなくして勝てなかった」

 プロ野球の横浜DeNAベイスターズが、令和元年に球団創設70周年を迎えている。1949年に山口県下関市で産声を上げたチームは、川崎球場時代を経て78年には本拠地を横浜スタジアムに移し、今では年間200万人もの観客を動員する人気球団となった。

 ただ、ことし4月に通算4000勝の節目に到達したものの、新興球団の楽天を除けばリーグで最も遅いペース。過去リーグ優勝に輝いたのはわずか2度で、70年に及ぶ歴史は苦節の歩みそのものでもある。

 連載「レジェンド語る」では、前身の大洋ホエールズ時代から球団史を彩ってきた往年の名選手や名監督を訪ね、当時の記憶とともに、昭和、平成時代を総括してもらう。そして令和最初のペナントレースでリーグ制覇を目指しながら最下位に沈む現在のチームを分析し、強くなるための処方箋も独自に語ってもらう。トップバッターは、98年にベイスターズを日本一へと導いた名監督・権藤博氏(80)。

 70年に及ぶ球団史で、ホエールズやベイスターズが優勝したのはわずかに2回だけだ。1960年以来となる日本一に輝いた98年は鈴木尚典、ロバート・ローズら強打者を軸とするマシンガン打線が球界を席巻した。現在も名古屋で野球解説者として活躍する権藤氏は当時をこう振り返った。

 権藤 優勝できたのは選手の力。振り返るとやっぱり強かったですよ。97年に僕がピッチングコーチになって、2位に上がった勢いがそのまま出た。あとはやっぱりファンの後押し。横浜スタジアムを埋める雰囲気が選手を盛り上げて、より力を出させた。

 ただ一言で言えば、抑えの佐々木(主浩)なくしては勝てなかった。99年は佐々木の肘の具合が悪くなって、次の年はアメリカに行っちゃった。控えの層が薄かったから、ちょっとけが人が出ると3位で、2000年も3位。監督を務めた3年間は横浜、中日、巨人が横一線で3強3弱という状態。どこが勝ってもおかしくなかった。

 就任早々、「俺を監督と呼ぶな」と言い、自らを「権藤さん」と呼ばせた。ミーティングを実施せず、選手の自主性を尊重し、選手の力を信じてほぼノーサインで戦う独自色を出した。懐かしの“権藤節”は今も健在だった。

 権藤 それまで投手コーチとして(中日、近鉄、ダイエー、横浜で)5人の監督に仕えてきたわけですから、「べからず集」だけは持っていたんですよ。もし監督になったらこれだけはやるまいということをやっただけ。選手交代にしろチームづくりにしろ、とにかくありきたりなことはやらない。自分が思ったことをやろうと思って監督を引き受けた。ミーティングは単に過去のデータをしゃべっているだけで、スコアラーはコーチ、監督より立場が偉いのかと。プロの選手にやるものじゃないですよ。

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