今季のUEFAチャンピオンズリーグで、サッカーファンを驚かせたのはアヤックスの復権であろう。
若き才能に恵まれたオランダの雄は、後半ATの失点により準決勝でトッテナムに敗れてしまったものの、レアル・マドリーを撃破するなどセンセーショナルな快進撃で4強入りを果たした。
彼らがCLで4強入りしたのは大会を制した1994-95の翌年、惜しくも準優勝に終わった1995-96以来23年ぶりのこと。
その23年前に決勝で対戦した相手がユヴェントスであり、当時、チームで栄光の10番を背負っていたのが今回紹介する元イタリア代表のアレッサンドロ・デル・ピエロだ。
ユヴェントスの象徴
今日、ユヴェントスの象徴として知られる彼だが、意外にもデビューしたのはパドヴァであった。
しかし当時から慧眼だったユーヴェはすぐに彼の能力を見抜いて獲得。1993-94シーズンに白黒のシャツを着て初めてピッチに立つと、その眩いばかりの才能で瞬く間にトッププレーヤーとしての地位を築く。
その輝きは当時の10番、ロベルト・バッジョの移籍をクラブが決断したほど。
後年のバッジョとデル・ピエロ
ビアンコネロの新たな10番を任されたアレックスは、その最初のシーズンとなったCL決勝でアヤックスを倒し、プラティニ以来2人目となるCLを制覇したユーヴェの10番となった。
それ以降は度重なる怪我、クラブ史上初のセリエB降格など苦しい時期も過ごすことになる。それでも常にクラブに愛を示し戦い続けた彼は、今日、ユヴェンティーニが最も愛するプレーヤーとなったのだ。
近代サッカーに適応した元ファンタジスタ
1990年代、「ファンタジスタ」というイタリア語が日本では流行した。
日本と現地イタリアではややニュアンスの異なるものであったが、一般的には創造性あるプレーで観る者を魅了する選手に付けられるもの。
ちょうど『キャプテン翼』でいうところの主人公・大空翼と重なったこともあり、折しもこの時代に日本からは中田英寿や中村俊輔のようなトップ下が多数生まれた。
しかしながら世界において、時代はまさに現代サッカーへと移行する過渡期にあった。
チームとして扱い辛さもある古典的なトップ下やファンタジスタは居場所を失いつつあり、実際、この時期に何人もの選手が時代の流れに抗えず姿を消している。
デビュー当時、最上級のテクニックと創造性で見る者を魅了したデル・ピエロも例外ではなかった。
しかし彼には予期せぬ転機があった。1998年に左膝十字靭帯断裂の悲劇に見舞われてしまったのだ。以降の彼はかつてのような輝きを失い「終わった選手」とのレッテルを貼られたが、2001-02シーズン、16ゴールを記録し完全復活を遂げる。
ただしその姿は、かつて人々を魅了したファンタジスタとしての彼ではなく、より実用的で、より得点に特化したアタッカーとしてのデル・ピエロであった。
それ以前に一度だけだった二桁得点は、退団までに七度も記録している。ケガの功名かもしれないが、時代の変化に適応した柔軟性は特筆すべき点だろう。
そして彼の成功に合わせるかのように「ファンタジスタ」という言葉は国内外において死語となっていく。「ファンタジスタ」に生まれたデル・ピエロが、自らの手で「ファンタジスタ」を葬り去った…そう表現することもできるのではないだろうか。
デル・ピエロ・ゾーン
そんなデル・ピエロの代名詞といえば、なんといっても「デル・ピエロ・ゾーン」である。
ユーヴェで通算208得点を記録した彼であるが、特にゴール前左45度を得意の角度としており、そのエリアのことを人々はそのように呼んだ。
右足のインフロントから放たれたシュートが、美しい弧を描いてゴールに吸い込まれていくシーンは誰もがよく見たものだ。
これは利き足と反対サイドに選手を配置する昨今では決して珍しくない。サイドから内へ切れ込み、得意の足でシュートを放つことができるからだ。
ただ、かつてはサイドであれば縦に強い、いわゆる「ウィング」のような選手が重宝される時代であった。だからこそ、デル・ピエロは(ウィングではなかったものの)そのエリアおよびそこからのシュートに個人名が付けられたのである。
メッシやロナウド、ネイマールといった現サッカー界を牽引するスーパースターさえ、彼らの名前が付いたようなプレーはない。それだけデル・ピエロが与えたインパクトは大きかったということだろう。
こうして改めて振り返ると、デル・ピエロは過渡期に生まれ、ファンタジスタという前時代的な属性を持ちながら、近代サッカーの“走り”となった選手と言えるのかもしれない。
美しきフットボーラー
人は平等である…と口ではいってもわれわれは人間は不完全な生物であり、概して美しいものが好きである。
かつて小野伸二の恩師ベルト・ファン・マルワイク監督は「同じ能力であれば若いほうを使う」と明言したことがあるが、同じ能力であればイケメンのほうが“推されてしまう”のは悲しいかな普遍的なことである。
デル・ピエロは能力的にも超一流であったが、一方でルックス面が知名度の向上を後押ししたことは言うまでもない。
同じファンタジスタのバッジョはカルト的な人気を誇った。しかし彼は職人肌のような選手であり、どちらかといえば男性からの支持が強かったといえるだろう。
一方、デル・ピエロは端正な顔立ちでありながら甘えるような優しい笑顔も特徴で、欧州の女性はもちろん極東に生きるわれわれをも虜にする要素を持っていた。
見よ、この端正な顔立ちを…!
現地メディアによる「イケメン選手ランキング」のような企画でも、常に上位にランクインしていたデル・ピエロ。
現在の彼はややふっくらし「良いパパ」といった雰囲気ではあるが、その愛らしい笑顔は今もまだ魅力に溢れている。
日本を愛し日本人に愛されたフットボーラー
彼はサッカー界でも有数の“親日”フットボーラーとして知られる。
昨夏のワールドカップ・セネガル戦後、「侍は決して諦めない」と語ったことはニュースになったが、過去に何度も来日しており、和製ビデオ・ゲームの愛好家でもある。
そんな親日の彼は、“新日”好きでもある。“新日”とはそう、昨今、盛り上がりを見せている新日本プロレスのことだ。
日本にプロサッカーリーグがなかった1970~80年代、日本ではちょうどプロレスが大ブームでジャイアント馬場やアントニオ猪木ら花形レスラーたちがお茶の間を熱狂させた。
実はその模様は海外でも放送されており、当時はまだ少年だったデル・ピエロをも夢中にさせていたのだ。
後年、彼は来日した際にテレビ番組でドラゴンこと藤波辰爾と共演しており、出国時には、この時にプレゼントされたタイガーマスクを被って写真まで撮影していた。
そうしたことの積み重ねが彼の“親日愛”を強めていったのかもしれない。
2011年に発生した東日本大震災の際には愛情ある言葉でわれわれ日本人を励まし、同年9月には、復興のため日本円にして2000万円以上の寄付を行った。
翌年には日本で開催されたチャリティーマッチにも参加し、震災から5年が経った2016年3月11日には「東日本大震災を忘れないために…」と題し追悼のメッセージを公開している。
こうして彼は、ユヴェントスの象徴であると同時に「日本で最も愛される海外フットボーラー」の一人となったのだ。
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