教育と改革

 いつの時代も「教育」は「このままでよいのか」と悲観的な論調で語られている-少し前に読んだ小説にそんな趣旨の一節があった。“ネタばれ”が心配なので、著者や題名は伏せたまま書く▲だから「教育」はしばしば「改革」とセットで新聞に登場する。何年かおきに教科書の厚さが変わったり、入試のルールが変更されたり。土曜日の紙面には「高校の学び」に関する政府の教育再生実行会議の提言があった▲会議は、現在の高校の普通科について「教育内容が画一的で、生徒の多様な能力や関心に応えられていない」と問題視しているらしい。求める生徒像や目指す人材育成のイメージを各高校に明確化させ「学びの変化を促す」のだという▲しかし、それは、生まれて15年ほどの中学生に「なりたい自分」の選択を厳しく迫ることになりはしないだろうか。学校の序列化を招かないか、と考えるのは的外れだろうか。子どもは変化を続ける。どの学校にも均質な教育の機会を用意しておくことの意味は小さくないはずだ▲「教育」が、いつもどこか不完全に見えて、改革論議がひっきりなしに行われていることは「最近の若者は…」が時代を超えた年長者の嘆きであることに似ている気がする▲振り回されるのは子どもだ。大人はそこを自覚しておきたい。(智)

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