「村上春樹を読む」(92)「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」 歴史を継承する

「文藝春秋」2019年6月号

 村上春樹が自らのルーツを初めて詳しく書いた「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」が「文藝春秋」2019年6月号に特別寄稿として掲載されています。

 この寄稿は新聞各紙でも大きく報道されましたが、村上春樹が父母のルーツ、特に父方のルーツと父親の従軍体験を調べて、詳しく記した文章で、村上春樹作品を読む上で非常に重要な一文だと思います。読んでいると、村上春樹がこれまでに書いた多くの作品が、頭に中に浮かんでくる文章でもあります。

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 村上春樹の父親が日中戦争に従軍したことは、これまでも知られていますが、この「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」の中で、その父親の日中戦争従軍の体験が詳しく書かれています。

 「父が配属された部隊は第十六師団(伏見師団)に所属する歩兵第二十連隊(福知山)だった」。村上春樹は長く、そのように思っていたようです。

 「歩兵第二十連隊が、南京陥落のときに一番乗りをしたことで名を上げた部隊」であり、「この部隊の行動にはとかく血生臭い評判がついてまわった。ひょっとしたら父親がこの部隊の一員として、南京攻略戦に参加したのではないかという疑念を、僕は長いあいだ持っており、そのせいもあって彼の従軍記録を具体的に調べようという気持ちにはなかなかなれなかったのだ。また生前の父に直接、戦争中の話を詳しく聞こうという気持ちにもなれなかった」と村上春樹は書いています。

 ですから、父親が2008年8月に、90歳で亡くなったあと、村上春樹が自分の父親の軍歴を詳しく調べてみることに着手するまでに、5年ばかりの時間を費やさなくてはならなかったようです。

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 調べてみると、村上春樹の父親の入営は、1938年8月1日でした。そして第十六師団の歩兵第二十連隊が「南京城攻略一番乗りで勇名を馳せたのはその前年、37年の12月」だったのです。ですから「父はすれすれ一年違いで南京戦には参加しなかったわけだ。そのことを知って、ふっと気が緩んだというか、ひとつ重しが取れたような感覚があった」と村上春樹は書いています。

 でも、そのことで、村上春樹の父親の軍隊体験への探究が終わったというわけではありません。「第二十連隊は南京戦のあとも、中国各地で熾烈な戦いを続けている。翌年の5月には徐州を陥落させ、激しい戦闘の末に武漢を攻略し、敗軍を追って西進し、北支で休むことなく戦闘を続ける」からです。

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 それがどのようなものであったのか、今回の「村上春樹を読む」で紹介したいと思いますが、でもその前に村上春樹が記している自分の父親のルーツを紹介したいと思います。

 村上春樹の父方の祖父・村上弁識(べんしき)は、愛知県の農家の息子で、近くの寺に修行僧として出されました。でも彼は優秀な人物だったらしく、修行を経たあと、時を経て、京都の浄土宗の安養寺に住職として迎えられることになりました。

 その弁識が6人の息子をもうけ、弁識の次男として生まれたのが村上春樹の父親です。6人の子供たちのおおかたは、多少なりとも僧侶としての資格を持っていたようで、村上春樹の父は「少僧都」という位を得ていました。兵隊でいえば少尉くらいに相当する僧侶の位らしいと書いています。

 村上春樹の父親は1936年に旧制中学校を卒業後、18歳で、仏教教育のための西山専門学校に入りました。そこを卒業するまでの4年間、徴兵猶予を受ける権利を有していたのですが、正式に事務手続きをすることを忘れていた(と本人は言っていた)ようで、そのために1938年8月、20歳の時、学業の途中で徴兵されることになったのです。

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 その軍歴を改めて調べてみると、村上春樹が思っていたこととは違い、父親の所属は、第十六師団(伏見師団)所属の歩兵第二十連隊(福知山)ではなく、同じ第十六師団に属する輜重(しちょう)兵第十六連隊だったのです。この連隊は京都市内の深草・伏見に駐屯する司令部に属する部隊でした。輜重兵というのは、補給作業に携わり、主に軍馬の世話を専門とする兵隊のことです。

 このように村上春樹の父親は南京戦には参加していませんが、しかし前述したように、第二十連隊は南京戦のあとも、中国各地で熾烈な戦いを続けていました。村上春樹の父親は輜重兵第十六連隊の特務二等兵として、1938年10月3日に宇品港を輸送船で出港し、同6日に上海に上陸。上陸後は、歩兵第二十連隊と行軍を共にしていたようです。

 陸軍戦時名簿によれば、主に補給・警備の任務にあたった他、河口鎮付近での追撃戦(10月25日)と、漢水の安陸攻略戦(翌年3月17日)、襄東会戦(4月30日から5月24日)に参加していました。「そのような血なまぐさい中国大陸の戦線に、二十歳の父は輜重兵として送り込まれている」と村上春樹は書いています。

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 そして、村上春樹の父親が、一度だけ打ち明けるように「自分の属していた部隊が、捕虜にした中国兵を処刑したことがあると語った」というのです。

 村上春樹が当時まだ小学校の低学年だったころのことで、それがどういう経緯で、どういう気持ちで、父親が村上春樹にそのことを語ったのか、それはわからないし、ずいぶん昔のことなので、前後のいきさつは不確かで、記憶は孤立しているそうです。

 村上春樹の父親はそのときの処刑の様子を淡々と語り、「中国兵は、自分が殺されるとわかっていても、騒ぎもせず、恐がりもせず、ただじっと目を閉じて静かにそこに座っていた。そして斬首された。実に見上げた態度だった」と父親が語ったことを記しています。父親は「斬殺されたその中国兵に対する敬意を――おそらく死ぬときまで――深く抱き続けていたようだ」とも村上春樹は書いています。

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 「いずれにせよその父の回想は、軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は、言うまでもなく幼い僕の心に強烈に焼きつけられることになった。ひとつの情景として、更に言うならひとつの疑似体験として」と村上春樹は記しています。

 さらに次のように加えてもいます。

 「言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを――現代の用語を借りればトラウマを――息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繋がりというのはそういうものだし、また歴史というのもそういうものなのだ。その本質は<引き継ぎ>という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう?」

 つまり、村上春樹の父親は南京大虐殺には関わっていないのですが、日中戦争の中で、中国人の捕虜を軍刀ではね殺すということを見て(あるいはもっと深く関与させられたのか、そのへんのところはわからない、とも書かれています)幼い村上春樹に語っていたのです。

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 最新長編の『騎士団長殺し』(2017年)は、ある日、妻から別れ話を告げられて家を出た肖像画家の主人公「私」が、新潟から北海道、東北を車で移動した後、友人の父で著名な日本画家・雨田具彦が使っていた小田原郊外の家に住むことから始まっています。その雨田具彦が関わったナチス・ドイツによるオーストリア併合や雨田の弟・継彦が関わった南京大虐殺と呼ばれる日中戦争中の出来事が描かれています。

 雨田継彦が「上官の将校から軍刀を渡され、捕虜の首を切らされた」ことが書かれていますが、その場面には「父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを」息子である村上春樹が部分的に継承した歴史が反映しているということなのだと思います。

 主人公の大学の同級生で、雨田具彦の息子・雨田政彦が語ることによれば「うちの父親は次男坊で、我の強い負けず嫌いな性格」とありますが、村上春樹の父親も弁識の次男ですので、この雨田具彦の人物設定にも、村上春樹の父親像が少し重なっているのかもしれません。

 村上春樹の父親は仏教教育のための専門学校に入り、そこを卒業するまでの4年間、徴兵猶予を受ける権利を有していたのですが、「正式に事務手続きをすることを忘れていた」ために1938年8月、20歳のとき、学業の途中で徴兵されました。

 雨田具彦の弟・雨田継彦も東京音楽学校の学生で才能に恵まれたピアニストでしたが、「ところが大学在学中、二十歳のときに徴兵された。どうしてかというと、大学に入学したときに出した徴兵猶予の書類に不首尾があったからだ」と記されています。

 つまり、雨田継彦にも村上春樹の父親の従軍体験が重なっているということでしょう。

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 さらに『ねじまき鳥クロニクル』(1994年―1995年)を読んだ人なら、1938年(昭和13年)の旧満州・モンゴル国境のノモンハンで情報活動していた山本という男が生きたまま全身の皮をナイフで剥がれされて殺される<皮剥ぎ>と呼ばれる有名な場面にも、村上春樹が父親から継承した歴史の反映を感じる人もいるかと思います。

 でも、それだけではなく、デビュー作の『風の歌を聴け』(1979年)で登場人物たちが集まる「ジェイズ・バー」のバーテンのジェイが中国人であることにも、村上春樹が父親から受け継いだ歴史の継承が反映しているのではないかと、私は思います。

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 私は、この「村上春樹を読む」の中で、作品を貫いて書かれている「村上春樹の歴史認識」について繰り返し述べてきました。その「村上春樹の歴史認識」とは、近代日本が体験した戦争のこと、特に東アジアとの戦争と現在を生きる我々との繋がりのことです。そして、米国と日本との戦争のことです。その村上春樹作品の「歴史認識」の出発点として、次のようなことを指摘したことがあります。

 「この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終る」。デビュー作の『風の歌を聴け』の冒頭近くに、そんな文章が記されています。

 その「1970年8月8日」は土曜日で、この土曜の夜、7時から9時までラジオの「ポップス・テレフォン・リクエスト」というものがあって、「犬の漫才師」と呼ばれるDJが登場します。「犬の漫才師」のDJの登場で、物語が動き出していくのですが、その「犬の漫才師」が登場するラジオ番組は終盤にもう一度出てきて、その場面が終わると、物語が終わりに向かい始めるのです。それは1970年の8月22日の土曜の夜のことです。

 当然、8月15日の土曜にも「犬の漫才師」の番組はあったはずですが、なぜか作中に書かれていないのです。そして、この8月15日と思われる日あたりから1週間、「僕」が「ジェイズ・バー」で知り合った「小指のない女の子」は旅をすると言って、その間に彼女は堕胎の手術を受けていますし、さらに「僕」の分身的な相棒である「鼠」も8月15日ごろから1週間ばかり「調子はひどく悪かった」のです。

 「僕」が「鼠」を誘って、ホテルのプールに行くと、空にジェット機が飛行機雲を残して飛び去っていくのが見えて、「僕」と「鼠」は昔、見た米軍の飛行機のことや港に巡洋艦が入ると街中がMPと水兵だらけになったことを話しています。1970年の8月の物語に、そのような敗戦後の歴史が記されているのです。

 つまり『風の歌を聴け』は、日本の敗戦後の1週間を意識して書かれているのではないかということを指摘しました。

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 さらに、続く第2作の『1973年のピンボール』(1980年)に登場した「208」と「209」という数字が書かれたトレーナーシャツを着た双子の女の子たちは、昭和20年8月と昭和20年9月を表していて、敗戦後、1カ月の日本社会を反映しているのではないか。そういう「歴史意識」を作品に埋め込みながら書かれた作品なのではないかという指摘をしてきたのですが、そのような考えがあながち見当外れのものでもないことを「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」は表していると思います。

 そして、敗戦の日からの1週間の日本を意識して書かれた『風の歌を聴け』、敗戦から1カ月を意識して書かれた『1973年のピンボール』と捉えることで、第3作『羊をめぐる冒険』(1983年)に、満州のことが登場することや日露戦争のこと出てくることが、歴史の繋がりとして理解できるのです。

 それは、村上春樹の最初の短編集のタイトルが『中国行きのスロウ・ボート』(1983年)であることにも繋がっていると思います。

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 「鹿寄せて唄ひてヒトラユーゲント」(40年10月)

 村上春樹の父親は熱心に俳句を詠む人で、「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」には、いくつかの父親の句が紹介されています。

 その中でも村上春樹が「僕はなぜかこの句が個人的には好きだ」と述べている作品です。村上春樹によると「これはたぶんヒットラー・ユーゲントが日本を友好訪問したときのことを、句に詠んだのだろう。当時ナチス・ドイツは日本の友邦であり、ヨーロッパで戦争を有利なうちに戦っており、一方の日本はまだ対英米戦争には踏み切っていなかった」という時の句です。

 この句から「歴史のひとつの光景が――小さな片隅の光景が――ちょっと不思議な、あまり普通ではない角度で切り取られている。遠方にある血なまぐさい戦場の空気と、鹿たち(おそらくは奈良の鹿なのだろう)の対比が印象的だ。いっときの日本訪問を楽しんでいたヒットラー・ユーゲントの青年たちも、その後あるいは厳冬の東部戦線で果てていったのかもしれない」と村上春樹は書いています。

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 『騎士団長殺し』には、雨田具彦がウイーン留学中に際会したナチス・ドイツによるオーストリア併合のことが出てきます。ナチス・ドイツのことが描かれることに、唐突な感じを抱いた読者もいたようです。

 でも、村上春樹作品には、ナチス・ドイツのことは、時々、顔をのぞかせていると、私は感じています。一例を挙げれば、前々回の「村上春樹を読む」で紹介した短編「ハナレイ・ベイ」(『東京奇譚集』2005年)でも息子を失ったサチに応対する日系の警官が、自分の母の兄が1944年にヨーロッパで戦死したことを話しますが、それによると、彼の伯父は、日系人の部隊の一員として、ナチに包囲されたテキサスの大隊を救出に行ったとき、ドイツ軍の直撃弾にあたって亡くなったということです。「認識票と、ばらばらになった肉片しか残りませんでした」とも村上春樹が書いていますし、兄を深く愛していた母親は、以来、人が変わったようになってしまったと書かれているのです。

 そして、この、村上春樹の父親、村上千秋の句「鹿寄せて唄ひてヒトラユーゲント」は、その村上春樹作品におけるナチス・ドイツの光源のようにも感じられる作品です。村上春樹の鑑賞も説得力がありますが、なかなかいい句だと思います。つまり、南京戦を戦った父親とナチス・ドイツは、村上春樹の中でしっかりと繋がったものだったのでしょう。

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 このように「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」を読むと、村上春樹が幼い時から心に抱き続けてきたものを、デビュー作から、ずっと書いてきたことがよくわかります。今後、村上春樹作品について論じる時に、必ず触れられる大事な一文であることは間違いありません。

 さて、今回の「村上春樹を読む」の最後に、表題の「猫を棄てる」の部分について記してみたいと思います。

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 この「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」という文章は、猫の話で始まり、猫の話で終わっています。まず、終わりのほうのエピソードから紹介しましょう。

 村上春樹が子供時代の村上家は白い小さな子猫を飼っていたそうです。ある夕方、村上春樹が縁側に座っていると、目の前で、その猫はするすると松の木を上っていきました。子猫は驚くほど軽快にその幹を上って、ずっと上の枝の中に姿を消したのです。

 少年の村上春樹は、じっとその光景を眺めていましたが、でもそのうちに、子猫は助けを求めるような情けない声で鳴き始めたのです。高いところに上ってはみたものの、怖くて下に降りられなくなったようです。

 村上春樹は「父に来てもらって、事情を説明した。なんとか子猫を助けてやれないものか。しかし父にも手のうちようはなかった」のです。

 子猫は助けを求めて必死に鳴き続け、日はだんだん暮れていき、やがて暗闇がその松の木をすっぽりと覆います。翌日の朝起きたとき、もう鳴き声は聞こえなくなっていて、村上春樹が、松の木の上の方に向けて「猫の名前を何度か呼んでみたが、返事はなかった。そこにはただ沈黙があるだけだった」と書かれています。

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 「これは前にどこかの小説の中に、エピソードとして書いた記憶があるのだが、もう一度書く。今度はひとつの事実として」と村上春樹が書いていますが、それは『スプートニクの恋人』(1999年)で書かれた話ですね。

 「すみれ」という女性が小学校の2年生くらいのときに、生まれて半年くらいのきれいな三毛猫を飼っていたのですが、その猫が庭の大きな松の木の幹を一気に駆け上がります。そのまま降りてこなくて、「猫はそのまま消えてしまったの。まるで煙みたいに」と『スプートニクの恋人』にはあります。

 つまり、猫は「あちら側」に行ってしまったのです。それは「すみれ」が「あちら側」の世界に行ってしまうことの予告のようにもなっていました。

 「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」の事実のほうの話では、幼い村上春樹には、ひとつの生々しい教訓を残してくれたそうです。

 「降りることは、上がることよりずっとむずかしい」という教訓です。「より一般化するなら、こういうことになる――結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく。それはある場合には猫を殺し、ある場合には人をも殺す」と村上春樹は書いています。

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 そして、冒頭に記された猫のエピソードは、タイトルとなった「猫を棄てる」話です。

 村上春樹が、夙川(兵庫県西宮市)の家に住んでいるころ、海辺に一匹の猫を棄てに行ったのです。子猫ではなく、もう大きくなった雌猫だったそうです。

 父親と村上春樹は、夏の午後、海岸にその雌猫を棄てにいきました。父が自転車を漕ぎ、村上春樹は、後ろに乗って猫を入れた箱を持っていました。夙川沿いに香櫨園の浜まで行って、猫を入れた箱を防風林に置いて、あとも見ずにさっさとうちに帰ってきたのです。うちと浜とのあいだにはたぶん二キロくらいの距離はあったそうです。

 うちに帰ってきて、自転車を降りて「かわいそうやけど、まあしょうがなかったもんな」という感じで玄関の戸をがらりと開けると、さっき棄ててきたはずの猫が「にゃあ」と言って、尻尾を立てて愛想良く、村上親子を出迎えました。彼らより先回りして、とっくに家に帰っていたのです。しばらくのあいだ、二人で言葉を失っていましたし、そのときの父の呆然とした顔を、村上春樹はまだよく覚えているそうです。

 その呆然とした顔は、やがて感心した表情に変わり、そして最後にはいくらかほっとしたような顔になったようです。そして僕らはそのあともその猫を飼い続けることになったという話です。

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 この「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」には、村上春樹の父親がまだ小さい頃、奈良のお寺に小僧として出されたことが記されています。おそらくはそこの養子になる含みを持って、小僧に出されたのですが、そのことを父親は村上春樹に一度も話さなかったそうです。村上春樹は、それを従兄弟から聞いて知ったようです。

 しばらくして父は京都に戻されてきました。新しい環境にうまく馴染めなかったということも大きかったようです。実家に戻った父は、それからあとはどこにやられることもなく、両親の子供として普通に育てられましたが、その体験は「父の少年時代の心の傷として、ある程度深く残っていたように僕には感じられる」と村上春樹は書いています。

 そして「浜に棄ててきたはずの猫が僕らより先に帰宅していたのを目にして、父の呆然とした顔がやがて感心した顔になり、そしてほっとしたような顔になったときの様子を、ふと思いだしてしまう」と加えていて、「猫を棄てる」話と、父親の姿が重なってくるように記されています。

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 『スプートニクの恋人』の「すみれ」は松の木に猫が上がったまま、あたりはどんどん暗くなっていったので、「わたしは恐くなって、家の人に知らせにいったの。みんなは『そのうちに降りてくるから、放っておきなさい』って言った。でも猫は結局もどってこなかった」と話しています。

 そして「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」のほうでは紹介したように「父に来てもらって、事情を説明した。なんとか子猫を助けてやれないものか。しかし父にも手のうちようはなかった」と書かれています。

 つまり、この一文では「猫」を媒介にして、父親が呼び出される文章となっているのですが、村上春樹作品の中での「猫」が「何かの導き手」となっていることがわかります。

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 さらに、この文章の中では、大人になってから、村上春樹と父親との関係はすっかり疎遠になって、とくに村上春樹が職業作家になってからは、関係はより屈折したものになり、最後には絶縁に近い状態で「二十年以上まったく顔を合わせなかったし、よほどの用件がなければほとんど口もきかない、連絡もとらないという状態が続いた」ことが書かれています。

 これも注目された部分と言えますが、でもそのようなことが記されているのに「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」には、何か、どこかに温かみのような、回復する力のようなものがある一文なのです。

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 私は、これを読みながら、村上春樹のいくつかの作品が脳裏に浮かんできましたが、最も強く感じたのは『ねじまき鳥クロニクル』のことでした。『ねじまき鳥クロニクル』も、いったん消えてしまった猫が戻ってくるという話です。冒頭「ワタヤ・ノボル」という猫がいなくなり、そして「僕」の妻のクミコが行方不明となるのです。

 この長い長い物語は、時間をかけて、「僕」が妻を取り戻す物語ですが、物語の中で「僕」が、井戸に入って<壁抜け>していったところは、日中戦争などの日本人が経験した戦争の世界でした。

 そして物語の第3部で「猫」が「僕」のもとに帰ってくるのです。帰ってきた「猫」が「鰆」(さわら)を綺麗に食べるので、名前を「サワラ」と名づけ変えるのですが、その猫の帰還が、妻の帰還の予告となっています。そして「魚」偏に「春」を加えた「鰆」について、物語の最後に妻クミコはこんなことを書いています。

 「たしかサワラという名前でしたね。私はその名前が好きです。あの猫は私とあなたとのあいだに生じた善いしるしのようなものだったのだと、私は思っています。私たちはあのときに猫を失うべきではなかったのですね」

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 村上春樹は、父親が亡くなる少し前、村上春樹が六十歳近くになって、父親が九十歳を迎えたときに、ようやく顔を合わせて話をしたそうです。父親は入院していて、重い糖尿病を患い、身体の各部に癌が転移していました。

 「そこで父と僕は――彼の人生の最期の、ほんの短い期間ではあったけれど――ぎこちない会話を交わし、和解のようなことをおこなった」と村上春樹は書いています。

 「考え方や、世界の見方は違っても、僕らのあいだを繋ぐ縁のようなものが、ひとつの力を持って僕の中で作用してきたことは間違いのないところだった」と記しています。

 「たとえば僕らはある夏の日、香櫨園の海岸まで一緒に自転車に乗って、一匹の縞柄の雌猫を棄てにいったのだ。そして僕らは共に、その猫にあっさりと出し抜かれてしまったのだ。何はともあれ、それはひとつの素晴らしい、そして謎めいた共有体験ではないか。そのときの海岸の海鳴りの音を、松の防風林を吹き抜ける風の香りを、僕は今でもはっきり思い出せる。そんなひとつひとつのささやかなものごとの限りない集積が、僕という人間をこれまでにかたち作ってきたのだ」と書いているのです。

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 村上春樹の作品では、猫が活躍する物語が多いのですが、その村上春樹の多くの物語がこの「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」を支え、またこの「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」が、村上春樹の物語世界を支えているように感じました。村上春樹の父親が京都大学を出た学問好きな人だったこと、戦争中に3回も兵役についていることなども詳しく書かれています。

 村上春樹作品の根源に触れる一文だと思いますので、このコラムを読む方は、ぜひ「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」をお読みください。

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 あまりに長い回となってしまったのに、さらに加えるのは、よくないかもしれませんが、「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」を読んだ、記者の先輩の方から、次のようなメールをいただきました。

 「小生にも捨てた猫に戻ってこられた経験があります。しかも団地の4階で、猫は外出したことがなかったのです。捨てて一週間後の風雨の強い夜、玄関の扉で異音がするので、開いたら捨てた猫がびしょぬれで帰って来てました。空恐ろしくなりました。1970年の話です」

 猫が戻ってくることを経験した方は、まだ他にもいるかもしれないですね。「1970年」にはいろいろなことがあったのですね。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

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