『只見線 敷設の歴史』一城楓汰/彩風社【鉄の本棚 22】その1

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JR只見線は、2011年(平成23年)7月の新潟・福島豪雨災害で只見川に架かる第五・第六・第七橋梁が流失。その他にも路盤流出などの被害を受け会津坂本駅〜小出駅間が不通になりました。

その後、復旧され、2012年10月以降は橋梁の流された会津川口駅〜只見駅間27.6kmが不通区間となり、復旧をめぐりJR東日本と地元との協議が続きました。その間も代行バスによる輸送が行われています。最終的に不通区間は上下分離方式での復旧が決定。不通区間の復旧費用は福島県が3分の2、3分の1をJR東日本が負担。復旧後は施設・土地がJR東日本から福島県に無償で譲渡。JR東日本が第二種鉄道事業者として保有する車両で運行を実施します。全線開通は2021年度が予定されています。

このJR只見線の開通までの長い歴史が『只見線 敷設の歴史』で丁寧に叙述されています。非電化路線では日本で二番目に長い六百里越のトンネル(6359m)をはじめ、田子倉トンネル(3712m)などの長大なトンネルで只見線は福島・新潟県境の難所を結んでいます。人の住まない山間の難所を越えて鉄道を敷設した歴史は長く複雑なのです。

※2013年3月に廃止された田子倉駅ホーム

本書の内容。

まずは、7世紀から江戸時代にかけて、魚沼(新潟県)と奥会津・会津(福島県)との関わりとその上で人間や馬に替わるインフラ(鉄道=只見線)が希求される背景が説明されます。

確かに、魚沼と奥会津の間には峻険な山地が横たわっていて、簡単な往来が不可能であったにもかかわらず、歴史を通じて繫がりが絶えなかったことが分かります。

続いて「1868年(明治元年)〜1886年(明治19年)只見線敷設運動前夜」の章。

明治維新で旧幕府側であった会津藩は戊辰戦争に敗れ、廃藩置県以前に藩領が没収され藩主は禁固刑、家名存続を許された会津松平氏は青森県むつ市に移され斗南藩をたてました。藩士など1万7千人ほどが斗南藩に移ったとされています。会津領は福島県に入れられます。会津エリアは維新政府から厚遇される対象ではなかったのです。

※第八只見川橋梁

明治維新政府は近代資本主義のインフラとして鉄道をメインに推し進めます。1892年(明治25年)「鉄道敷設法」が公布され33の路線が幹線として予定されたました。日清戦争、日露戦争に勝利した日本は軍拡に突っ走ります。軍事的に大きな意味を持つ鉄道についても、1906年(明治39年)には「鉄道国有法」が成立。

鉄道を司る政府機関も工部省から内閣直属の鉄道局、内務省鉄道庁、逓信省鉄道庁、逓信省鉄道局などを経て1907年(明治40年)帝国鉄道庁官制が公布され帝國鉄道庁が開業。同年鉄道レールの国産化も始まりました。

次章は、
1887年(明治20年)〜1945年(昭和20年)8月15日
戦争の時代と只見線一部開通
ですが、長くなるので『只見線 敷設の歴史』一城楓汰/彩風社【鉄の本棚 22】その2 に続きます。

※会津柳津駅のC11 244号機

(写真・記事/住田至朗)