U-20W杯、得点王から「苦しい選手生活」になった5名

23日に開幕を迎えた2019年度のFIFA U-20ワールドカップ。世界から有望な若手選手が集結し、将来のスターを夢見て戦う。

多くのクラブがスカウトを派遣して選手の発掘を狙っており、この大会を経て大きく飛躍する者も少なくない。

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しかし、得点王という大きなタイトルを獲得しながらも苦しい選手生活を送ることになってしまった者も…。そんな5人を紹介する。

エベネザー・アシフアー(ガーナ/2013年)

トルコで行われた2013年のFIFA U-20ワールドカップ。初優勝を果たしたのがフランス代表で、MVPに輝いたのはあのポール・ポグバだった。

その大会で得点王になったのは誰だったかといえば、3位に入ったガーナ代表のエース、エベネザー・アシフアーである。アメリカ戦、そしてチリ戦で2ゴールを決め6得点。ブルマやヘセ・ロドリゲスを抑えてランキング単独トップに立っている。

その後スイスのシオンに移籍したがそれほどインパクトを残すことが出来ておらず、2017年からはフランス2部のル・アーヴルに所属。今季は17試合で無得点となかなかブレイクできず…。

ドミニク・アディヤー(ガーナ/2009年)

まさに2009年のU-20ワールドカップは「アディヤーの大会」だったと言っても過言ではない。

ガーナ代表はグループステージでウルグアイ、イングランドを抑えて決勝トーナメントへ。決勝戦では延長、PK戦の末にブラジル代表を破って優勝を果たした。その中心選手だったアディヤーは、8ゴールを決めて得点王に輝き、さらに大会MVPも獲得している。

その大会後、ノルウェーでプレーしていた彼はACミランに引き抜かれたもののほとんどプレーすることが出来ず…。ローン生活を送り、退団後はウクライナ、カザフスタンを経てタイリーグ2部に流れ着いている。

ドゥドゥ・セアレンセ(ブラジル/2003年)

彼の場合は、むしろ「期待が高まりすぎた」選手と言えるかもしれない。2003年大会ではボランチとしてプレーしながらもフェルナンド・カベナギ、エディー・ジョンソン、坂田大輔と並んで4ゴール。チームを優勝に導き、得点王のタイトルを手にした。

そして、彼が移籍先に選んだのはJリーグの柏レイソル。ところが日本にはあまり馴染めず半年だけの所属となり、レンヌ、CSKAモスクワ、オリンピアコスと渡り歩くことになった。

それからはアトレチコ・ミネイロ、ゴイアス、OFIクレタ、マッカビ・ネターニャ、フォルタレーザ、ボタフォゴでプレー。今年現役を引退し、BRSportsというマネージメント会社で代理人に転身している。

アドリアーノ(ブラジル/1993年)

1993年のワールドユース(当時の名称)で3度目の優勝を果たしたブラジル代表。そのエースストライカーであったのが、当時スイスのヌシャテル・ザマックスに所属していた若きFWアドリアーノであった。

この大会では得点王が3ゴール、しかも7名いたということで数字にインパクトはなかったが、このアドリアーノは大会MVPも獲得しており「個人二冠」の活躍だった。

ただその後欧州では成功できず、ボタフォゴやアトレチコ・ミネイロを渡り歩いたあと、2001年にはJリーグの浦和レッズに加入。しかしそこでもシーズン途中での退団となり、6ゴールという結果でチームを去ることに。

ただ『IPC』のインタビューで彼は「浦和のファンはクレイジーだった。彼らが試合中ずっと私の名前を呼んでくれたことは忘れられない。日本は一番印象的な国だった」と語っている。

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現在はサンパウロでサッカーを使った社会事業「Universidade do Futebol」に関わっているそう。

セルゲイ・シェルバコフ(ソビエト連邦/1991年)

ポルトガルで行われた1991年大会。ルイス・フィーゴやマヌエル・ルイ・コスタら「ゴールデン・エイジ」と呼ばれた後のスター選手が躍動した。

その大会で得点王に輝いたのは3位となったソビエト連邦のセルゲイ・シェルバコフ。現ウクライナのドネツクで生まれた彼は、6試合で5ゴールを決めて得点王に。しかし彼のサッカー人生はまさに苦難の道だった。

注目を集めた彼は、大会が行われたポルトガルの名門スポルティング・リスボンに引き抜かれることになったが…1993年に悲劇が襲う。

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彼を呼び寄せたボビー・ロブソン監督が解任されたため、その送別会が行われた。シェルバコフはその帰り道で交通事故に遭遇。飲酒の上シートベルトをしていなかった彼は頭蓋骨と脊椎を3箇所骨折し、腰から下を全て麻痺するという怪我を負ってしまった。

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22歳という若さで選手生命を絶たれてしまった彼であるが、現在は慈善団体と協力して活動しており、障害を持っているサッカー愛好家や少年たちを支援しているそうだ。

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