パークスロープの「生みの親」リッチフィールドが建てたイタリア式のヴィラ パークスロープ③

19世紀末のリッチフィールド・ヴィラ。当時は外壁が白く塗られていた。同建物は現在、公園管理塔

1852年に、鉄道ビジネスで築いた財産を投じて、現パークスロープ一帯の土地を約1平方マイルにわたって買い占めたエドウィン・リッチフィールドは、54年には地所を見下ろす丘の上に私邸の建築を始めた。3年を費やして完成した大邸宅は人気建築家アレクサンダー・デービスが心血を注いだイタリア荘園風のヴィラで、全米の富豪の間で話題となった。

公園造園で邸を手放す

 リッチフィールド一家がここに住んだのは10年あまりと意外に短い。実は、59年にソフトオープンしていたマンハッタンのセントラルパークに対抗して、ブルックリン市は60年に土地を購入、同規模の市民公園の造園計画を進めていた。当初、設計者として抜てきされたのは市役所土木課のエグバート・ディールだ。ところが、彼のデザインは不評。しかも南北戦争が勃発したため、プロジェクトは頓挫した。

 65年に戦争が終わって公園計画が再開。今度はセントラルパークの成功で時代の寵児(ちょうじ)となった建築家カルヴァート・ヴォーを投入して、ディールの初期プランを徹底的に改変した。中でも大きかったのが、公園西の境界を当初の10アベニューから9アベニュー(現プロスペクトパーク・ウェスト)に移した点。リッチフィールドのヴィラを周囲の丘ごと公園内に包含するという考え方だ。

 地元の「王」であったリッチフィールドは、さぞかし立腹したと思うが、この時、同市が追加で支払った補償金が170万ドル。全公園の土地購入費400万ドルの42%に当たるというから、さしものリッチフィールドも頭を縦に振らざるを得なかった。

1874年の古地図。旧リッチフィールド邸はパーク内に小さく記載されている

 ヴォーの新設計によるプロスペクトパークは67年に完成。楕円(だえん)形の広場(グランドアーミープラザの原型)や大自然を模した池、そして緩やかな曲線を描く園内道路が特徴だ。ブルックリン歴史協会が保存する74年版の地図をみると、かつてあった10アベニューは、外周道路「ウェスト・ドライブ」に塗り変わり、旧リッチフィールド邸は公園内に小さく描かれている。

NYで一番住みたい街に

プロスペクトパークの入り口のグランド・アーミー・プラザ。南北戦争を記念する凱旋門は1892年に除幕した

 プロスペクトパークができたおかげで、公園沿いの宅地の人気が急増する。馬車道だったプロスペクトパーク・ウェストには市電が走り、ビジネスの成功者や実力派の政治家たちが続々移り住んでくる。彼らは、競って当代人気の建築家を雇い最新流行の様式で屋敷を建てる。結局、不動産ブームで、リッチフィールドはさらなる富を得た。

 90年代に入ると、人々はこの辺りを「パークスロープ」と呼び始めた。大都会マンハッタンのけん騒から距離を置き、広大な公園を裏庭に持つパークスロープは、「住みたいエリア」ナンバーワンと称された。(中村英雄)

© Trend Pot NY,LLC