炎の中から救いだした青年 市民の犠牲かえりみぬ国

空襲とは何か、焼夷弾とは何か

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江刺昭子

女性史研究者

江刺昭子

女性史研究者

えさし・あきこ 広島市出身、早大卒。原爆作家・大田洋子の評伝「草饐(くさずえ)」で田村俊子賞。著書に「女のくせに 草分けの女性新聞記者たち」「樺美智子 聖少女伝説」など多数。

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1945年5月29日、横浜上空のB29。500機の大編隊でいっせいに投弾を開始した

 横浜大空襲の日の5月29日、市内各地で追悼式典やイベントが行われたが、足元のおぼつかない高齢者の姿がめだった。

 横浜は三十数回の空襲に遭い、1万人近い市民が命を奪われた。なかでも1945年5月29日は、午前9時20分ごろから約1時間、米軍のB29爆撃機517機から約39万2千発の焼夷弾が投下され、市街が焦土と化した。

 当時13歳の小野静枝さんは、中区山下町の横浜市立第一女子商業学校(戦後「市立横浜商業高校」、通称「Y校」に統合)の2年生で、学校で卓球をしていた。「B29が来るぞ」という教師の声に、慌てて卓球相手の友と学校を出た。敏捷な友は市電に飛び乗り、「どんなもんだい」と手を挙げてみせたが、それが最期になった。

 ▽火の地図を描く不気味な液体

 東横線大倉山の家に帰るため、東神奈川駅で電車の発車を待っていたら、爆音とともに電車が揺れる。飛び下りて防空壕を目指すが、壕内は人でいっぱい。振り返ると電車が火を噴いていた。

 以下は高校教科書『新日本史』(家永三郎著)に採録された小野さんの手記の一部。

 「突然、頭上で異様な音がした。ちょうど夕立を思わせるザザーッという音である。ふり仰ぐと、小さな十文字が三つずつ、群をなして煙の間に現れ、煙の中に消える。『これが敵機の編隊だな』と思う。間もなくアスファルトの道路に沢山の筒状のものが、重そうにボトン、ボトンと落ち始めた」

 「ドロドロと何か液体を吐きちらす。吐き出されたその液体は、ドロリとしていて、コンクリートといわず、柱といわずへばりついて、アッという間に燃え出す。広い道路のあちこちに火の地図を描き出した。また、その不気味な液体は逃げゆくどこかの婦人の背中にもへばりつき燃え出し、何か叫んだように思えたが、そのまま道路にころがって助けよう術はない。あるいはまた、その液体は道路に流れ出し、とりもちのように、燃え出しもせず逃げ行く人々の足をとった」

 「およそ畳一枚に三本から五本位の密度であったと思う。これが焼夷弾であった」

女学生時代の小野静枝。母の着物で手作りした上衣ともんぺで被災の日にも着ていた。(小野さん提供)

 逃げ場を失い呆然と立ちすくんでいたとき、煙の中から現れた青年に手をとられ、火と煙の渦巻く中に突っ込んでいった。時間が消え、気がつくと横浜駅東口の広場だった。

 戦後、結婚して生まれた2児の寝顔を見ながら、小野さんは被災体験を原稿用紙100枚近くに書き綴ったが、誰に見せるでもなく机の引き出しにしまいこんでいた。

 71年5月、「横浜の空襲を記録する会」が結成されるという小さな新聞記事が目に留まった。会場に行くが、気後れして中に入れない。それでもしまっていた手記を事務局に送ったことから会に誘われる。

 体験者の手記集めや研究者の現地調査に同行した。その年8月に「東京空襲を記録する会」の呼びかけで全国集会が始まる。そこにも参加するようになった。専業主婦の小野さんにとっては勇気のいる社会参加だった。

 2年後、飛鳥田一雄市長の決断で、横浜市が会に委託して『横浜の空襲と戦災』の編集刊行が始まった。事務局スタッフに雇われて毎日出勤、帳簿や資料の整理、訪ねてくる市民への応対もした。

 編集関係者は芥川賞作家の郷静子のほかは男性ばかり。「男社会で対等ではなかったわね」と言いながらも「戦災誌はわたしの大学だった」と振り返る。

 **▽補償もなく冷たく突き放す **

 75年から77年にかけ、小野さんの手記を含む第1巻「体験記」など全6巻の戦災誌が刊行されたが、彼女の仕事は終わりではなく、これが始まりだった。

 「記録する会」の活動を続けながら、頼まれて「神奈川県戦災傷害者の会」の聞き取り調査にも当たる。こちらの会は76年結成。戦災傷害者は手や足を失ったり、顔にやけどのあとが残るといった重い傷を負いながら、何の補償もなくひっそりと戦後を生きてきた。その実態調査と援護を目的としている。

 軍人・軍属との格差は大きかったが、戦災傷害者を援護する特別法制定の要請に対し、国は「民間戦災傷害者は国の使用人ではない」と冷たく突き放した。

 小野さんは聞き取りの仕事が自分にできるだろうかと戸惑う。だが、一歩間違えば死んでいたのに、傷一つなく生き残った。そのわたしがやらなくてはと思う。重い口を開いてもらうために、親睦会のような雰囲気で聞き取ったテープが、4年で40本にもなった。

 雑談の中の切れぎれの言葉を集めた。「無いはずの手指が疼く」という声もある。神奈川と東京の男女20人の足跡を『その日を生き続けて 空襲による障害者の記録』(85年)にまとめた。

B29元搭乗員を囲む座談会。右から小野静枝、B・ヤングクラス、P・ヤングクラス、今井清一、早乙女勝元(『有鄰』346号、小野さん提供)

 東神奈川を爆撃したB29の搭乗員で、撃墜されて捕虜になったB・ヤングクラスさんと妻が96年に来日。急きょ設定された座談会(情報誌『有鄰』346号掲載)にも出席した。爆撃の詳細を語るヤングクラスさんに、小野さんが「そのときわたしは下にいた」と言うと、ヤングクラスさんの妻が「ごめんなさいね」と応じた。

 「勝っても負けても戦争は残酷で空しい」。小野さんは座談会をそう締めくくった。

 「記録する会」の会員と『伝えたい 街が燃えた日々を―戦時下横浜市域の生活と空襲』を編集・刊行したのは2012年。それまでの戦災記録は、被害が集中した地域が中心だった。そこに周辺部をつなぐことで全体像が見えてくるのではないかという考えから、37人の証言を集めている。

 ▽この人がいたから生きられた

 戦争の記憶の継承が危ぶまれているが、記録がなければ継承もできない。若い人にも読んでほしいと、貴重な記録を編み続けた小野さんは、わたしが尊敬する友人だ。報いられる保証のない仕事をなぜこんなに長く続けられたのか。そう聞いてみた。

 74年前のあの日、炎の中から連れ出してくれた青年が「この人がいたから自分も生きられた」と呟いた言葉が忘れられないから。それが答えだった。

 「見ず知らずのわたしは足手まといだったはずなのに、彼の思いやりだったと思う。一方で国という巨大な集団の力、組織の力がわたしたちを殺そうと思い詰めていた。戦争っていったい何だろうと考え続けて今日まできた」

 彼女の深い思いを聞いた日、日米両首脳が海自横須賀基地で護衛艦「かが」に搭乗し、武力を誇示するような映像を観た。晴れがましい表情の裏に、他国はおろか自国の民であっても、その犠牲をいとわない国家の意思が隠されているような気がした。(女性史研究者・江刺昭子)