【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】 No.179

▲上野公園にある西郷隆盛像(東京都台東区)

(6月5日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

戦備

 江戸市中での交戦を避けたいと考えた益次郎は、戦場を上野山内に限定した。彼の編成による諸藩の配置は次のとおりである。

 黒門口=薩摩藩・熊本藩・鳥取藩、団子坂=長州藩・大村藩・佐土原藩、本郷台=佐賀藩・岡山藩・津藩。

 正面の黒門口、背後の団子坂、西側の加賀藩上屋敷がある本郷台の3方を固め、東側の根岸、日暮里方面には兵を配置しなかった。敗走路をつくることで、彰義隊による玉砕戦法を防ぎ、速やかに戦いを終結させるためである。

 真偽は不明であるが、当初、西郷隆盛は、益次郎の作戦計画に不満の色を示したといわれている。激戦が予想される黒門口に薩摩藩兵が配置されていたからである。

 「薩摩の兵を皆殺しにするつもりか」と詰め寄る隆盛に対し、益次郎は、少しも驚かず、「いかにもそのとおりである」と、厳然として答えたという。
 一方、彰義隊も着々と戦備を整えていた。

 境内には、寛永寺周辺に住む町人や侠客の子分たちによって、土を詰めて鉄砲の弾除けにするための空俵や、大量の畳が運び込まれていった。

(続く。次回は6月19日付に掲載します)

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