名声や金は成長の何の役にも立たない―。そう言って世間を離れ、修行僧のようにひたすら絵を描いた画家がいる。小倉尚人氏。青年時代に仏教と出会い「絵画の中で禅の世界と同じものを求める」との信念で制作を続け、３０代に抽象画の曼荼羅で一躍注目を集める。しかし、後半生では作品を発表することなく、２００９年に６４歳で亡くなった。近年、この無名画家に光があてられ、今秋には初めての展覧会が梅野記念絵画館（長野県東御市）で開催される。（共同通信＝松森好巨）
「何かが形になる以前の原初のエネルギーに満ちている」
「ミクロコスモス（人間）とマクロコスモス（宇宙）、双方の宇宙が奏でる音響のようなもので埋め尽くされている」
６月２日、東京都港区の青松寺で小倉氏をテーマに対談会が行われた。登壇したのは竹村牧男東洋大学長、金子啓明日大芸術学部客員教授といった仏教学、日本美術史の第一人者。それぞれ、抽象曼荼羅や仏画などに高い評価の言葉を並べていた。
しかし、２人が小倉氏を知ったのはここ１、２年ぐらいのことだという。長く埋もれていながら、専門家を感嘆させる作品を残した小倉氏とは、いったいどのような人物だったのだろう。対談会で配布された資料などからたどっていきたい。
小倉氏は１９４４年、旧満州に生まれる。６３年に東京学芸大美術科に入学。油絵や彫刻を中心に学ぶ一方で、座禅道場に通い仏教に傾倒していく。卒業後は高校講師などをしながら制作を続けるが、２９歳でＣ型肝炎を患う。当時は不治の病とされたため死の不安に直面したが、療養を経て克服。その後、完成させたのが金剛界抽象曼荼羅だった。
銀座の画廊で個展を開催すると、縦横約１８０センチにも及ぶこの大作は全国紙や美術雑誌に取り上げられ注目を集める。以降も胎蔵界抽象曼荼羅を制作し、金剛・胎蔵の抽象曼荼羅計１８点を完成させる。
ところが、その後は作品を公にすることなく、ただひたすら仏画を描いては菩提寺である福島県南相馬市の岩屋寺（がんおくじ）に奉納していく。晩年には世間との交流を一切断つ隠遁の生活を送りながらも、死ぬ間際まで制作を続けた。０９年に亡くなるまでに残した作品は約９００点にのぼる。
小倉氏は１９歳から晩年まで日々の思索の記録を書き残していて、妻靖子さんによってまとめられている。難解なそれらの言葉からは、小倉氏において宗教的な境地を求める心と、絵を描くという行為が重なり合っていたことがうかがえる。一部を抜粋する。
「絵画の中で、禅の世界と同じものを求める」（２２歳）
「偉大な信仰を得ることに対して、私は限りなく続く行を絵の中で行おう」（２５歳）
「絵で立つということは世間においてということでなく大地の間に、一つの精神が完成への熱をひめて孤独を経てのち宇宙の孤として立つことだ」（２８歳）
「権威による評価、市場の価値評価も、全く表現の中心意味からみれば垢でしかない」（５１歳）
「仏画は画士が画道を極めんが為の修行であり、画道と仏道の不二を体得せんとする一、一の行である」（６０歳）
これらの言葉からは近寄りがたい孤高の人物という印象も受けるけれど、「もともとは人が好きで、話し好きだった」（靖子さん）。ただ、「自分の奥底にある問題は自分だけにとどめていた」（同）という。「自分は二重構造だ」。靖子さんは小倉氏のそんな言葉を聞いたことがある。
そうした〝矛盾〟は日々の生活にも現れた。抽象曼荼羅が完成した後の４０代では、芸術とは関係のない様々な人との交流を持つ一方で、５０代から晩年にかけては自宅の電話線を切り、人からの便りも封を開けないまま送り返すなど、外界との接触を徹底的に避けたという。
そんな小倉氏の生き様に一貫していたもの、それを靖子さんは次のように振り返った。「若いころに、自分は絵を通して人生の謎を解いていくと態度表明し絵に打ち込んでいた。そして、それは亡くなるまでぶれなかった希有な人でした」
小倉氏に光をあてたのは、東京学芸大の同窓生たち。中心となったのは和光大学公開講座講師の江渡英之さんだ。卒業後は交流が途絶えていたが、１１年のクラス会で死を知る。岩屋寺に多数の作品が収められていることも判明し、１４年に他の同窓生と訪問する。そこで〝発見〟したのが同寺に奉納されていた抽象曼荼羅や数々の仏画だった。
「その美しさ、力強さと品格に圧倒された」という江渡さんは、交流のあった梅野記念絵画館の佐藤修館長に小倉氏のことを紹介。展覧会の後援会を結成するなどして開催に向けて動き出した。
ただ、関係者には葛藤もあったという。佐藤館長は１５年、岩屋寺で小倉氏の作品を見たときの感慨をこう記している。「この全くの無名画家（絵師といってもいい）の軌跡を世に問うべきか、埋もらせ、忘れられたままにしておくべきか。小倉尚人を巡る私たちの長い煩悶はこの日から始まった」（対談会配布資料から引用）
江渡さんもまた、名利を嫌った小倉氏のことを世に出すのに「複雑な思いもあった」と語る。それでも小倉作品の持つ力に突き動かされるように、展覧会実現へ向けて奔走してきた。
展覧会は小倉氏の没後１０年となる今年の１０月６日から２０年１月１４日まで開催されることが決まった。江渡さんは「精密に描かれた小倉作品の魅力は写真では伝わらない部分もある。ぜひ実物を見てもらいたい」と話している。
