【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】

No.180

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▲黒門をイメージした壁泉(東京都台東区)

(6月12日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

黒門口

 上野公園の南側入口の階段そばに「壁泉」がある。これは、かつてこの付近にあった「黒門」をイメージしてつくられたものである。

 この地にあった黒門は、1907(明治40)年、荒川区南千住の円通寺に移設された。黒く塗られたその門には、今でも無数の弾痕が残され、戦闘の激しさを今に伝える。

 東征軍と彰義隊との戦いが始まったのは、15日の午前7時頃であった。そこで、薩摩、鳥取、熊本藩兵が向かったのは、黒門口である。正面には薩摩藩、切り通しには鳥取藩、熊本藩は不忍池より黒門に迫る。東征軍の指揮所は、この三藩の担当場所のすぐ後方に置かれた。

 一方、彰義隊は、本坊に北白川宮能久親王を奉じ、本営を寒松院に置いた。天野八郎もここに詰めていた。

 彰義隊は、一時は3千人いたというが、当日は1千人ほどだったという。東征軍の攻撃を前に逃亡して行った者、寛永寺の外にいて戻れなくなった者も少なくなかった。

 彼らは、新黒門、穴稲荷門、清水門、谷中門、坂本門、屏風坂門、車坂門の八門に着き、天王寺にも立て籠った。

(続く。次回は6月26日付に掲載します)