武道館を埋めた作家がいた 戦争責任には沈黙

「差別」横行する時代に再評価を

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江刺昭子

女性史研究者

江刺昭子

女性史研究者

えさし・あきこ 広島市出身、早大卒。原爆作家・大田洋子の評伝「草饐(くさずえ)」で田村俊子賞。著書に「女のくせに 草分けの女性新聞記者たち」「樺美智子 聖少女伝説」など多数。

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住井すゑ(1981年、自宅で撮影)

 日本武道館は格闘技や芸能人のライブの会場として有名だが、ここを満杯にした作家がいる。大河小説『橋のない川』で知られる反骨の人、住井すゑ。27年前のきょう(1992年6月19日)、8500人の聴衆を前に「九十歳の人間宣言」と題して熱弁をふるった。

 『橋のない川』第7部刊行の記念講演で、講演録はそのままブックレットになった。当時、住井は講演や対談に引っ張りだこで、「住井すゑ現象」といっていいようなブームの渦中にあった。亡くなったのはそれから5年後、97年6月16日だった。

 武道館講演から時を経て、彼女が繰り返しその非道さを語り、解消を呼びかけた差別はなくならず、かえって他国や他民族、異なる考えを持つ人への排除の言葉が、街頭に、書店に、ネットにあふれる。あのブームは何だったのだろうか。

 ▽主人公は人間解放求める少年

 『橋のない川』は、30年以上の歳月をかけて書き継がれ、計600万部のロングセラーになった。明治末期から関東大震災後までの時代を背景に、大和盆地の被差別部落に生まれた少年が人間解放にめざめ、平等を求める水平社運動に参加していく物語だ。

 住井の生家は奈良県田原本町で農業兼織物製造業を営み、近くに被差別部落があった。それが大作の原点となる。12歳頃から少女雑誌や文芸雑誌に投稿し、17歳で上京して講談社の記者に。2年後には農村を舞台にした自伝的小説『相剋(そうこく)』を出版した。

 農民文学作家で活動家の犬田卯(しげる)と結婚し、4人の子育てをしながら童話や小説を書き、稼ぎのない夫に代わって生計を担う。30年には『大地にひらく』が読売新聞の懸賞小説第2席に入選。女性アナキストたちが創刊した『婦人戦線』にも毎号小説や評論を発表している。

 35年に夫の郷里である茨城県牛久に退いてからも書きまくる。戦時下、農民文学は脚光を浴び、敗戦までの間に『農婦譚』、『土の女たち』、『大地の倫理』のほか、少国民ものも多作。戦後は主に児童文学分野で執筆を続けた。

 57年、長く病んでいた夫が亡くなり、看病生活から解放された。夫の遺骨の一部を東京・青山墓地の「解放運動無名戦士の墓」に納めたその足で部落解放同盟を訪ね、今日から運動に参加させてほしいと申し出た。そして、長年あたためてきた作品にとりかかる。55歳だった。

 ▽90歳近くでブレーク

 わたしが初めて住井に会ったのは1970年の年末。当時、「西光万吉著作集」全4巻の編集に関わっていたためだった。西光は水平社宣言の起草者で、『橋のない川』の登場人物のモデルでもある。著作集に付ける月報の原稿を住井に依頼したところ、口述なら引き受けるというので、牛久のお宅を訪問した。

 三島由紀夫が自刃した直後のことで、住井は強い口調で三島を非難した。逆に西光のことは「人間の命を尊敬することから戦争を否定した。一番の文化人ですよ」と評した。気迫に圧倒された。

 8年後、雑誌に住井すゑ論を書くために再訪した。住井は人間平等に目覚めた体験を語った。それは『橋のない川』に主人公の体験として描かれている。

 6歳のとき生家近くで陸軍の大演習があった。天皇が吸ったタバコの吸殻や糞(ばば)を持ち帰って家宝にしている者がいると聞き、神様だとされる天皇が人間だとわかった。

 小3のとき大逆事件があり、幸徳秋水は悪いやつだと校長が訓示したが、その校長の説明では、幸徳は天皇の命に背いて戦争に反対し、金持ちも貧乏人もない世の中を作ろうとした。幼い住井は、幸徳の考えのどこが悪いのかと思ったという。そして持論を展開した。どこに生まれようが、どんな暮らしをしようが、人はみな死ぬのだから、時間の法則の前に平等なのだと。

 ベストセラー作家でありながら、文壇の外にいたせいか、文学批評の対象にならなかった。ブレークしたのは90歳近く、昭和天皇の代替わりが近づいたころから。反天皇制、反差別のシンボルとしてもてはやされ、講演や対談、エッセー集が次々と出版された。対談の相手には、永六輔や、澤地久枝、石牟礼道子、野坂昭如らに加え、毎日新聞の論説委員を務めた次女、増田れい子もいた。

 **▽作品にすべて込めた **

 盛り上がりに水をさしたのは95年8月の『RONZA』戦後50年特集「表現者の戦争責任」。戦時中の住井が忠君愛国物語を書き、戦争を賛美したではないかと責めた。これに対して住井は「書いたというより、書かされちゃうんですよね、あの頃は」「それ書かなくては生活できない」と釈明した。さらに、責任のとり方を追及されると、「『橋のない川』を書くことがいっさいの自分の反省であり、もう、ここにすべてを書き込めると思って始めた」と応じている。

 住井はついに、自らの戦争責任について正面から語ることはなかった。それは残念なことだった。だが『橋のない川』にすべてを込めたという苦しい弁明もまた、胸の内の真実であったと思う。批判の深度は、直接の差別者を操る国家権力や天皇制といった差別・抑圧の源泉に届いているから。

 例えば1993年、現天皇の結婚の際、住井は共同通信の取材に、当事者の痛みをおもんぱかる言葉を残している。天皇制について終生、全否定の立場だったにもかかわらず。

 「結婚というのは、いってみれば私事ですよね。それを寄ってたかって見せ物みたいにしてしまっている。お二人がかわいそうだと思います。特殊な扱いをすることは、お二人にとっても憂鬱(ゆううつ)なことでしょう。一人の男性と女性の結婚という、ごく普通のこととして考えればいいのでは。名門だ、エリートだと家系や身分、経歴などを強調することが、差別を助長する結果にもつながっています。戦時中と同じ気分が広がって、敗戦が生んだ民主化への希望を一寸刻みでなくしているような気がしますね」

 住井については、いまだにまともな評論が見当たらない。貧しく弱い者に寄り添い続けた文学は貴重だし、農村を舞台にしたおびただしい作品群は、その時代の農村事情を知るうえで、史料的価値も大きい。

 農山漁村が衰え、差別的な言説が跋扈(ばっこ)する今こそ、住井の表現と向き合いたい。(女性史研究者・江刺昭子)