「のら猫さんぽ」〜那覇の公設市場を歩く~

ありがとう、那覇市第一牧志公設市場!

 沖縄の戦後復興の象徴のひとつでもある、那覇の第一牧志公設市場。

 国際通りからちょっと入ったアーケード内にある、コンクリート4階建ての建物。そこを中心に小さな店舗がひしめき、国内外の観光客で賑わっていたけれど、築47年で老朽化が進み、ついに建て直すことになった。

 市場好きの私は、あの界隈をのら猫のようにうろちょろしている。

 国際通りという、ちょっと小高くなった通りから緩やかに下るぬれずに歩けるアーケード内。

 濡れずに歩けるアーケード内。猫がゆく小径。

 働く女たちの姿。観光客の群れ。南の島特有の食文化。

 とぐろを巻いたイラブー(海蛇)や退屈そうにぶら下がる島バナナ。

 公設市場入り口にある冷やしレモンで喉を潤すと、肉と魚の交差点で島らっきょうや海ぶどう、豚の面やヤシガニ。食の匂いと鮮やかな色彩がカオスとなって、私を2階へ誘う。

 

 2階には、軒を連ねた食堂が手招きしていて、朝から刺身やてびちをつまみに飲める。二日酔いには胃袋に優しい、ゆしどうふやアーサー汁が待っている。

 5月に亡くなった父を連れて10年前にここを訪れた際、父がキョロキョロと少年のような面持ちで「ここはワクワクするね。懐かしい気持ちになる」と喜んでいたのが忘れられない。

 

 東京からくると、必ず立ち寄るひとが多いとも聞く市場。

 あの場所がガラリと姿を変える前に、いま一度記憶にとどめておきたい。

 わたしは閃いた。

 「そうだ、市場界隈の街を歩いてみよう。それを記録してみよう。しかもみんなで。題して『のら猫さんぽ!』」

 

 久しくなりを潜めていた「のら活動」の虫が動きだす。

 洞口依子スペシャル企画『のら猫街歩きトークライブ』。

 日時は市場閉鎖の前々日、6・14の金曜日に決定。

 早速、沖縄の愉快なトモダチ・沖縄っ子たちに声をかけた。

市場屋根の猫と手書きの立ち猫ステッカー

 戦後、沖縄復興のシンボルになった国際通りが、いったいどのようにしてできたのか。沖縄っ子に薦められた本『沖縄・国際通り物語 「奇跡」と呼ばれた一マイル』(大濱聡・著)がとても参考になった。

 あまりにもよく書かれているので、このままドキュメンタリー番組で見てみたいと思ったら、なんと著者の大濱さんはNHKのプロデューサーだった。 

「沖縄・国際通り物語」とのら猫街歩き地図やチラシ

 その本によると、市場界隈の歴史がよくわかる。

 高良一(たから・はじめ)という実業家によって、戦後間もなくこの界隈に設立された映画館「アーニーパイル国際劇場」。

 それが、「国際通り」の名前の由来になった。(余談だが、日比谷の「宝塚劇場」もGHQ統治時代は「アーニーパイル劇場」と呼ばれていた。アーニーパイルとは沖縄県伊江島で戦死した従軍記者の名前である)。

 実は、「国際劇場」より10カ月早くできた映画館がある。元沖縄県知事・仲井眞弘多(なかいま・ひろかず)さんの父・元楷(げんかい)さんがオーナーの「中央劇場」だ。当時は、この界隈にできていた闇市で大変盛り上がっていたという。

 闇市は賑わいをみせるが、渋滞や人だかりができて困ると目くじらを立てるアメリカ。

 そこで1950年、闇市をまとめて市場を建てようという流れになるわけだ。

 「市場をどこに作るのか?」

 高良と仲井眞のライバル同士の綱引きの末、現在の場所に牧志公設市場ができた。もし、仲井眞元知事の父が勝っていたら、市場界隈の様子はガラリと変わっていたかもしれない。

 現在の4階建ては、本土復帰の1972年に建て替えられたものだ。

市場の今昔

 ゼロから始める。

 ゼロを1にすることの難しさ。

 東京者のわたしが自主企画でイベントを立ち上げるのは、おいそれとはいかなかった。

 でも、そこには映画製作を通して昔から信頼している仲間たちがいた。

 當間早志監督率いるNPO法人「シネマラボ突貫小僧」。

 突貫小僧という名前は、小津安二郎監督の映画『突貫小僧』(1929年・松竹キネマ)に由来する。

 腕白小僧さながら、沖縄にまつわる映画を研究し続けている彼ら。沖縄県内にあった映画館を調査した復興史『沖縄まぼろし映画館』(ボーダーインク社)を當間早志と平良竜次の共著で上梓。今回の街歩きにも欠かせない一冊だ。

 そして、「沖縄アーカイブ研究所」を設立した真喜屋力監督。 

 彼は、一般家庭から発掘された多くの古い8ミリを収集し、デジタルアーカイブ化しながら文化発信やアーカイブの重要性について真摯に向き合っている。

 デジタルアーカイブ化された貴重な8ミリ映像を活動写真時代の弁士のごとく、ユーモアを交えて発表している。

 さらに『探偵事務所5シリーズ・マクガフィン』で制作スタッフとして知り合った鳥越一枝嬢。沖縄で映画やCMなどで辣腕をふるう彼女が、今回の制作全般を請け負ってくれた。

 そもそも、彼女から「市場16日に閉まるよ!」と耳打ちされたのがきっかけだった。「いい大人が子どもみたいに本気になって遊ぶことを忘れないようにしたいよね」といつも話していた。

 「あたしの遊びに付き合ってくれないかな?」

 そのかけ声で、集まった沖縄っ子たち7人。

 そして、東京から助っ人としてウクレレユニット・パイティティの石田画伯が、最新機材を持って那覇入り。

 トーク会場は鳥越嬢のオススメスポット、水上店舗3階にあるクラフトビール屋さん「浮島ブルーイング」に決定した。

 水上店舗はその昔、羽仁未央さんと香港や台湾に向けた「闇映画館」をやろうと酒席で盛り上がった思い出深い場所だ。

 かつて、ここにはガーブ川という小川が流れていた。

 そこに蓋をして、小さな商店が建ち並んだのが水上店舗の始まりだ。「ブラタモリ」でも紹介していたので、市場界隈を歩けば、ああここなのかと気づくだろう。なかなか味わい深い店舗だ。

 メンツはそろった。

 「洞口依子×シネマラボ突貫小僧×沖縄アーカイブ研究所」コラボ企画。

 街歩きの内容は、映画館から派生した牧志公設市場界隈の街並みと、映画ロケ地にもなった場所を歩き、16日に閉鎖される市場2階に潜入。

 市場組合長の粟国智光さんのお話も伺えることになった。

 仮設店舗引っ越しや16日に閉鎖されるためのイベントやマスコミ対応で大わらわの最中に本当に快く承諾してくれた。

 そして、会場を貸してくれた浮島ブルーイングの由利充翠さん。

 美味しいクラフトビール券と、片手でつまめるおつまみというわがままなオーダーにも対応くださった心遣いに感謝。

 

 告知のフライヤーには、こんなふうに趣旨をまとめた。

 【沖縄戦後の混乱期から70年にわたり那覇の中心商店街として繁栄してきたマチグヮー(市場)は、その独特のたたずまいが映画人に注目され、国内外の映画でロケ地になってきました。山田洋次監督『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』(1980)、高倉健主演『網走番外地 南国対決』(1966)などフィルムには、マチグヮーを通して時代とともに揺れ動く沖縄の姿が定着されました。時代と人が混じり合った場所「マチグヮー」の変遷を、このように立体的にたどることは、映像・音声資料の保管(アーカイブ)の第一歩であり、次世代への継承としても重要ではないでしょうか。

 ~映画には、物語を伝えるだけでなく、風景や街並みを記録するという一面もあります。この街歩きとトークライブを通して、変わりゆく沖縄の断片が映画のシーンとともに心に刻まれることを願っています」(女優 洞口依子)~】

ロケ地と市場界隈街歩き

 14日当日の朝は、どしゃぶりの雨の中、ラジオカーで市場前から中継。

 しかし、イベント開催時には雨もやみ、爽やかな風も吹いてきた。

  

 いよいよ、国際通りど真ん中にある文化交流地点「てんぶす那覇」前から「のら猫街歩き」が始まった。

 経路は、ざっと以下の通り。

 アーニーパイル国際劇場跡地~平和館通り入り口跡地~『夏の妹』(1972大島渚監督)ロケ地~『ロボット刑事』(73年フジテレビ放映 石ノ森章太郎原作)~『麻薬売春Gメン恐怖の肉地獄』(1972年千葉真一・渡瀬恒彦)~『網走番外地 南国対決』(1966年高倉健主演)~第一公設市場潜入~『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』(1980年山田洋次監督)。

 

 お気づきだろうが、これらのポイントは全て映画にまつわる場所ばかり。

 映画館の跡地や、映画のロケ地として使われた場所を、當間監督が的確に解説。『沖縄まぼろし映画館』の共著者の平良竜次さんも、写真資料を高々と掲げ、大勢の参加者に向けて頑張ってくれた。

 市場界隈のあちこちの小道を60人くらいでぞろぞろ1時間ほど歩く。

 公設市場の屋根で休んでいたのら猫もその集団に驚くほど。

 こうして、「浮島ブルーイング」のトーク会場に到着。

 冷えたクラフトビールで喉を潤しながら、3組のトークライブが始まった。

 トップバッターの當間監督は、市場界隈の古い地図とグーグルストリートビューの対比で街の変遷を解説。また、米軍カメラマンによる古い8ミリ映像をマニアックに読み解いて観客たちを唸らせた。

 続く真喜屋監督は、1950年代に撮影された家庭用8ミリを持参。スクリーンにたくましい物売りの女性たちが映し出されると、会場のご婦人から一声「なんで男のひとはいないのかね~」。

 これには、会場のみんなが大爆笑。

 いつの時代も女たちによって支えられてきた沖縄の市場。そのありのままの姿が闇に浮かび上がった瞬間だった。

 最後に登壇した私は、市場界隈で撮影された自分のウクレレバンド・プロモーションビデオや映画のオフショット写真で会場を盛り上げた。

 

 こうして、のら猫集会は70人以上のひとびとにより大盛況のうちに幕を閉じた。

 知ると楽しむを同時に堪能できたイベントだったと振り返る参加者の声や、知的好奇心は人を前進させるといった声。

 市場界隈の歴史解説に好奇心を満たされ、自筆の「のら猫団扇」や「のら猫バッジ」などを胸にして満面の笑みを浮かべ、満足げに参加者のみなさんがそれぞれの家路についたことだろう。

ラジオ中継などで盛り上がったイベント

 懐かしい味わいのある市場が閉鎖されるのはちょっと寂しい。

 だけど、次はどんな市場になって帰ってくるのかなという興味はある。仮設店舗では、沖縄の食文化を伝えるブースも増えるという。

 それにしても、戦後70年以上経った現在、本当に街の景色の移ろいは早い。

 「ここに何があったっけ?」なんて記憶すら曖昧。

 だから、過去を焼き付けておくことは大事だ。

 写真や映像を残し、アーカイブすること。

 映画にあの場所が映っているというだけで、それはもう立派なアーカイブなのだから。

 今回の街歩きでは「過去」を「現在」にレイヤー(重ね)することが大事だということも再認識した。

 現在の街並みをいくら見つめても、見えてこないのが過去というもの。

 その過去を現在にレイヤーすることで、過去が想像できたり、全く新しい見たこともない未来がうっすらと見えてくるかもしれない。それには過去を知ることがまず大事だ。

 過去から覗く未来。

 台湾は「文化創意産業(文創)」と題し、歴史と文化を結びつけた産業を提唱している。日本統治時代の建造物をうまく取り入れながら新しい街づくりをし、文化発信しているとも聞く。

 たとえばそれは沖縄という街にもヒントがありそうだ。

 あるいは、日本のどんな街にもあてはまることかもしれない。

 東京の街を歩くとき、その街の歴史を知り、過去から現在、未来を覗く。いつもの街並みがちょっと違って見えてくるかもしれない。

 「人の歴史、町の歴史のおもしろさを再確認できた夜でした。何よりもマチグヮーの持つエネルギーが、東京経由で僕らを突き動かし、観客にまで伝播していくビッグウエーブは圧巻でした」とは、沖縄アーカイブ研究所の真喜屋監督の言葉である。

 東京者のわたしが不安を抱えながら挑んだ企画。

 それを、こんなふうに言ってくれるなんて。

 「本当にやってよかった!」と、今は胸を張って言える。

 7月1日には、公設市場がすぐ近くの広場に仮設オープンする。

 あなたも夏の沖縄で、市場界隈の街並みを歩いてみてはいかが?(女優・洞口依子)

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