昭和の歌姫、人気健在 美空ひばり30回忌、磯子で催し

美空ひばりさんの思い出を語り合う(右から)松永さん、鶴田さん、曽根さん=杉田劇場

 「昭和の歌姫」として国民から愛された美空ひばり(本名・加藤和枝)さんの30回目の命日の24日、生まれ育った磯子区で、よく知る関係者らが少女時代の思い出や逸話を語り合うイベントが開かれた。駆け付けた幼なじみやファンら約60人で会場は埋まり、その人気の健在ぶりを改めて示した。

 ひばりさんは1946年4月、以前の芸名「美空一枝」として、今の磯子区民文化センター杉田劇場の近くにあった旧杉田劇場で、8歳で初舞台を踏んだとされる。区内にあったアテネ劇場の舞台にも立ち、48年に野毛にあった横浜国際劇場で本格デビューした。

 アテネ劇場の映写技師だった松永春さん(90)は、ひばりさんを「あこがれの人」と評し、「あまんじゃくの歌」の誕生秘話を「作曲家の高木東六さんがひばりさんの自宅に訪ねた際、演奏するピアノに合わせ、ひばりさんが見事に歌った。ひばりさんは歌の天才と言われた」と披露した。

 「美空ひばりさんを愛する横浜市民の会」会長の鶴田理一郎さん(81)は、同市中区にあったひばりさん経営の「美之(みゆき)寿司(ずし)」で板前として働いていた。ひばりさんのちゃめっ気のある気さくな性格を紹介し、「ひばりさんが、自分の耳元で小さな声で『かわいい』と言ってくれた」とうれしそうに振り返った。

 ひばりさんと一緒に食事に行く時は、ひばりさんが自らを名付けたあだ名の「ゲラ子」と呼んだという鶴田さんは「ひょうきんな人だから、この会を開いてくれたことに感謝していると思う」と天を仰ぎ見るように顔を上げた。

 材木商の曽根武夫さん(80)=同市磯子区=は、知人の棟梁(とうりょう)から譲り受けた、「ひばり御殿(ごてん)」と呼ばれた住まいの棟上げ式や、美之寿司でのひばりさんを写した白黒写真を紹介。会場では、ひばりさんの幼なじみらも思い出話を披露し、地元に刻まれた「不死鳥」の足跡を振り返った。幕あいには横浜マンドリンクラブのメンバーがひばりさんの名曲を演奏し、盛り上げた。

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