国公立大進学なら教師に―高校で野球をやめようと思った西武本田の不思議な“縁”

西武・本田圭佑【写真:荒川祐史】

大学では「野球はやらなくても…」、国公立断念で親から「宮城で野球を続けてほしい」

 4年目の今シーズン、4月4日のロッテ戦でプロ初勝利を挙げた西武の本田圭佑投手。2016年のオフに行われたU-23ワールドカップでは、侍ジャパンU-23代表の一員としてチームを優勝に導く活躍を見せたものの、17、18年の2年間は、1軍での登板が計6試合と苦しんだ。今シーズンは開幕ローテーション入りを掴み、ここまで7試合に登板。好調の理由は「投げることを楽しんでいる」ことだという。

 宮城県の東北学院高では甲子園出場はなく、大学では「野球はやらなくてもいいかな」と思っていた。両親に金銭面で負担をかけないよう国公立大に進学し、体育教師を目指すつもりだった。しかし、勉強が思うようにいかず断念。私立の東北学院大に進学した。

「国公立大は受からないだろうなって。それで親と相談しました。金銭面で関東の大学には行かせられない。私立でいいから、宮城で野球を続けてほしいって言われて、それで決めました」

 国公立大を諦める形で進学した東北学院大だったが、この選択がプロ入りのきっかけになった。東北学院大の先輩で、当時西武に所属していた岸孝之投手(現楽天)を見出した、西武の水沢英樹スカウトが本田に声をかけた。

「水沢さんがよく練習を見に来てくれていました。まさか、プロのスカウトが自分に声をかけてくれるなんて思いませんでした。ウエートトレーニングを強化したことで、3年生の時には球速も147キロまで伸び、それもあってプロを意識し始めました」

 そして、15年のドラフトで西武から6位指名を受け入団。「驚きました。大学でも自分の満足のいく結果が出せていなかったので、プロは無理だろうなと思っていました」と当時を振り返る。ルーキーイヤーは1軍で2試合のみの登板だったが、オフにはU-23日本代表に選出され、2試合に先発。好投を見せチームの優勝に貢献した。しかし、2年目、3年目は1軍での登板は計6試合と、結果を残すことはできなかった。

4年目で好調の理由「ちょっと時間が空いてしまったけど、やっとわかりました」

「『自分の武器は何だろう。自分の特徴は何だろう』と考えていましたが、見つけられませんでした。U-23では、かわしていいピッチングができたのですが、日本人は対応力あるバッターばかりなので、自分の持ち味を発揮できませんでした」

 ブルペンでは腕が思い通りに振れているのに、試合になると力が入りフォームがばらけてしまった。昨年8月に2軍に降格してからは、試合でもフォームが維持できるように繰り返し練習した。

「オフには台湾でのウインターリーグに参加して、いい状態で今年のキャンプに入れました。でも、今年初めての対外試合でまたダメでした。練習で投げている球と、試合で投げている球が明らかに違うのを痛感しました。何でダメだったんだろうと考え、気持ちの問題なのかなと思いました。それで、U-23で結果を残していた時のことを思い出しました」

 U-23の時は楽しんで投げることができたが、結果に目が行ってしまい、楽しく投げることができなくなっていた。勝負を楽しんでいる時は自分の力を発揮でき、ベストな状態で投げられていた。それに気が付いたことが、プロ初勝利につながった。

「ちょっと時間が空いてしまったけど、やっとわかりました。3年間チャンスをいただいたのに勝てなかった。辻監督も使ってくれていたのに、期待を裏切っていました。試合を見に来てくれる両親や、応援してくれる人もたくさんいる。いろんな人たちに勝ちを届けたかった。なんとか勝ちたいという思いで投げました」

 今は、ずっと見つけられなかった自分の武器、そして、自分がどういう投手になるべきかが見えてきた。

「コントロール、緩急のあるピッチングを伸ばそうと思ってやっています。目指すのは、常に安定して試合を作れるピッチャーです。完璧に投げられる圧倒的な力は持っていないので『グッド』くらいの安定したピッチングを続けられるようになりたいと思っています」

 勉強がうまくいかず、国公立大への進学を断念。自分の実力ではプロ入りも無理だと思っていた。結果がついてこないと自信が持てず、投げることを楽しめなかった。「諦めてばっかりでしたね」と苦笑いを浮かべる26歳の右腕は、「初勝利」という結果を自信に変え、投げることを楽しみながらマウンドに上がる。(篠崎有理枝 / Yurie Shinozaki)

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