<商業捕鯨の針路>石巻・鮎川から(2)生業と文化/盛衰の道 地域と歩む

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捕鯨最盛期の鯨まつりの風景。会場は見物客で埋め尽くされ、鮎川の繁栄ぶりが伝わる(鹿井さん撮影)

■ にぎわう通り

 「映画館、キャバレー、ダンスホールが軒を連ね、町はクジラ一色だった。本当ににぎやかだった」

 石巻市鮎川浜の元大工鹿井(かのい)清介さん(86)がモノクロ写真を手に目を細める。

 18歳の頃から鮎川の隆盛を写真に収めてきた。今も続く鯨まつりは、捕鯨産業の発展で空前の好景気に沸く1953年に始まった。

 街中を練り歩く仮装した女性たち。通りを埋め尽くす見物客。花火の光に捕鯨船のシルエットが浮かぶ一枚は渾身(こんしん)の作品だ。

 鮎川の捕鯨は1906年、東洋漁業(山口県下関市)の進出で始まった。牡鹿半島には東京、高知、和歌山などの名だたる捕鯨会社9社が競って進出。半島突端の寒村は瞬く間に屈指の近代捕鯨基地となった。

 当初、クジラの解体場から海に流出する大量の残骸に悩まされたが、地元の名士らは鯨肥に活路を見いだし、大手捕鯨会社と共存共栄の道を確立する。

 小型捕鯨に乗り出す住民も現れ、沿岸でミンククジラを捕った。捕鯨は家業となり、地域経済を支えた。

■ 津波に奪われ

 54年には鯨博物館が開館。捕鯨の波及効果は大きく、飲食、サービス、観光業が発展した。最盛期の55年、鮎川を含む旧牡鹿町の人口は現在(約2500)の5倍超の約1万3000。その多くが鯨関連の産業に従事したと言われる。

 70年代後半になると、繁栄に陰りが見え始める。国際的な反捕鯨の機運が高まり、国際捕鯨委員会(IWC)の規制が強化された。日本の商業捕鯨はIWCによる82年の一時停止(モラトリアム)の採択を経て、88年の撤退に至る。

 鮎川の捕鯨産業は一気に縮小した。鯨博物館の後継として90年、観光施設「おしかホエールランド」が開業。ピーク時は年間約15万人が訪れた。観光産業への転換を図ったものの、東日本大震災の津波は同施設や街中にあった近代捕鯨の名残を根こそぎ奪った。

■「家族の歴史」

 「商業捕鯨の再開はモラトリアムの前日に戻ることではない」

 震災後、鮎川で文化財レスキュー事業に取り組む東北学院大の加藤幸治教授(民俗学)は指摘する。

 商業捕鯨の衰退とともに、鮎川の水産業の主軸は定置網漁や養殖業に移った。モラトリアム以降、商業捕鯨は調査捕鯨に軸を移し、30年以上をかけ、別のなりわいと産業が築かれていった。

 加藤教授は「捕鯨は裾野の広さで成り立ってきた産業。商業捕鯨再開後、どういう形で維持していけるだろうか」と冷静に問い掛け、「鮎川の人々にとってクジラの歴史は家族や隣人の歴史。それらに思いをはせることが現在、未来を展望する土台になるはずだ」と地域の将来を思い描く。

[鮎川の捕鯨]金華山沖はマッコウクジラが群集する「抹香城」と称され、豊かなクジラ資源は藩制期から注目された。捕鯨砲を用いた近代捕鯨が盛んになり、漁場に近く出漁や鮮度維持に有利な鮎川港が捕鯨基地に選ばれたと言われる。『牡鹿町史』によると昭和に入り鮎川に小型捕鯨が誕生。食糧難を背景に全国の3分の1の小型捕鯨船が鮎川港に集積した。

[訂正]27日の「商業捕鯨の針路(1)」の写真説明で、水揚げされたのはミンククジラでした。