なぜ引退後にメンタルトレーナーを目指すのか? 学童保育指導員の元選手の想い

アジアンブリーズでプレーしていたときの小林優太さん【写真:本人提供】

プロへの最後のチャンスとして、アジアンブリーズに参加した小林優太氏

 野球選手にとって引退後のセカンドキャリアを考えることは重要だ。中には選手としては区切りをつけたが、これまでの辛い経験を力に変えて選手を支える決意をした者もいる。その1人が小林優太氏だ。

 小林氏は群馬県出身で堅実な守備を武器とする二塁手。本職の二塁だけではなく、内外野や捕手もこなすユーティリティプレーヤーだ。プロ野球選手を夢見て前橋工業高の野球部に入部するも部の雰囲気が合わず、退部を決意。その後は同校の軟式野球部でプレーを続けた。卒業後は東京福祉大、クラブチームの全浦和野球団などを経て、現在は学童保育指導員として働いている。

 現在に至るまで長い間、プロ選手を目指して色々なチームでプレー経験を積んできた。一時期はBCリーグの信濃グランセローズに練習生として入団したものの、選手契約にはあと一歩届かなかった。そんな中、小林氏がラストチャンスとして選んだ場所は米国を舞台にプロ契約を目指したトラベリングチーム「アジアンブリーズ」だった。

「どうしてもプロ野球選手になりたい気持ちを諦められない気持ちがありました。もし今回、契約オファーがなければ、区切りをつけようと思いました」と強い覚悟をもって入団を決めたという。

 渡米した小林氏は、チーム内でも貴重なユーティリティープレーヤーとして、MLB球団やメキシカンチームと対戦し、自身のプレーをアピール。異国で大きな経験を積んだ。しかし、契約オファーを勝ちとることができず。プロ野球選手を諦める決断をした。プレーを終えた小林は、学童保育指導員として働く傍ら、メンタルトレーナーを目指して日々、学び続けている。

小林優太さん(左)と心理カウンセラーの「きいさん」【写真:本人提供】

1人1人に寄り添ったメンタルトレーナーに

 なぜ、小林氏はメンタルトレーナーを目指しているのか。その背景には学生時代の経験が関係している。「幼い頃から自分は完璧主義で、失敗すると自分自身を責め続けていました。そのため、できることより、できないことばかりを気にして自分に自信が持てなかったのです」

 また、中学生のときに、顧問の行き過ぎた指導に苦悩し続けた結果、保健室登校、不登校になり、さらにパニック障害に陥ってしまう。心身ともに不安定になってしまった小林氏はプロ野球選手への夢を追うどころか、日常生活に支障をきたしてしまう。野球に対しても指導者への恐怖感などが重なり、競技自体を嫌いになった時期があるという。小林氏は当時について「毎日、自分がダメだと思っていました。死にたいという気持ちもあり、人生の終わりだと考えていました」と強い絶望感を抱いていたと振り返る。その後、高校に進学するも上下関係の厳しさや罰のある野球部独特な環境に馴染むことができなかった。

 こうして辛い経験を振り返った小林氏。逆にこの経験のおかげで目指す理想のメンタルトレーナーの姿を明確にした。「出会った指導者の中には選手に厳しいノルマを課し、罰を与える。選手が意見することも許さないような人もいました。その人は試合に勝つことだけを考えて、選手に寄り添わない人でした。逆に私は自分の経験が、出会う人の助けになるように1人1人に寄り添ったサポートがしたいのです」と決意を語る。

 その後、大学で心理学を学び、在学中からメンタルスクールにも通い、知識を増やしていった。そしてアジアンブリーズ参加前に、心理カウンセリングを受けた。「きいさんという心理カウンセラーがいて、勇気付けられる言葉をもらったり、自分を受け入れることの大切さだったり、生きやすさも感じるようになりました。その結果、プロ契約こそ勝ち取れなかったが、ありのままの自分でプレーすることができた」と満足した表情で振り返る。

 野球選手としては区切りをつけたが、人を支える側として活動を続けている。その原動力は自ら経験した辛い経験を他の人にはしてほしくないという優しさだ。選手から、選手を支える側へ。小林氏は1人1人に寄り添うメンタルトレーナーとして、再び野球界で活躍を目指す。(豊川遼 / Ryo Toyokawa)

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