なぜ佐世保に?鎮守府開庁130年 外洋から攻められにくい立地 長崎、伊万里も熱心に誘致

明治23年5月26日、佐世保鎮守府開庁式臨御のため天皇行幸時の上陸実況(上野彦馬撮影、佐世保市立図書館所蔵)

 旧日本海軍佐世保鎮守府が1889(明治22)年7月1日に開庁されてから、今年で130年を迎える。長崎や佐賀も名乗りを上げ、誘致合戦も繰り広げられたという。鎮守府の設置後、佐世保は村から市に急速に発展した。佐世保市が2002年に刊行した「佐世保市史 軍港史編」の執筆委員長を務めた防衛大名誉教授、田中宏巳氏(76)=神奈川県鎌倉市=を訪ね、佐世保に決まった背景を探った。

 1872年に海軍省が発足した。2年後に佐賀の乱や台湾出兵が勃発。海軍の軍備強化・艦船増強は喫緊の課題となった。こうして東西に鎮守府を置く構想が出た後、東西南北の4鎮守府構想が浮上した。

 九州では長崎と伊万里が誘致に熱心だった。鎮守府を造るには、本庁や港湾施設など膨大な施設が必要になり、郷土を盛り上げる意味合いが強かったとみられる。田中氏は「今で言う産業誘致だ。長崎と伊万里の有力者らは関係省庁に船で向かって陳情したと思われる」と推測した。

 長崎は江戸時代から港が開かれ、台湾出兵の際に遠征軍の出発地になった。石炭が入手しやすく、東シナ海に面している立地条件の良さも強調した。幕末以降、海外の船は横浜港に多く入港するようになっていた。田中氏は「長崎は危機感を持っていたのではないか」と分析する。伊万里は東シナ海の防衛のための立地条件だけでなく、石炭や水の補給に都合がいいことを主張した。
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 83年に東郷平八郎艦長を擁する軍艦「第二丁卯」が測量のため佐世保湾に現れ、対馬海峡や五島列島に囲まれ、外洋から攻められにくい立地が注目されるように。その後候補地が絞られていく中で、防衛上の観点から佐世保は残っていった。

 佐世保が“寒村”だったことも選ばれた大きな要因になった。同じ時期に鎮守府が設置された呉も同様だった。田中氏は「施設を人に見られたくないのが軍人のさが。長崎港は商業港として栄え、人が多すぎる」と指摘。伊万里などはすでに人家が立っていたり、浅瀬で軍艦が入りにくかったりしたため、候補地から消えた。

 佐世保鎮守府開庁後、佐世保は日清戦争で軍港としての機能を果たしていく。田中氏は「佐世保港は軍艦が停泊できる十分な場所があり、守りやすい。軍港としての機能は佐世保が一番。実にいい港だ」と評価した。

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