第十五回 軍艦内の知られざる食料&衛生事情

あいー、こんちわ。ジメッてますね〜。この連載もジメりっぱなしですがいきますよ!

基本私、戦国時代、幕末、日露戦争から太平洋戦争までの3つの大きな括りの出来事ブームが順不同で30年以上続いてるわけなんですが、今は太平洋戦争の辺りがキテます。なんで今回もその辺りを。

軍艦には多数の乗組員が狭い艦内にみっちりいます。航海に出てしまえば逃げ場のないストレスフルな空間と言えるでしょう。そんな艦内での楽しみとしてはやはり食事なのではないでしょうか。

日本海軍最大の戦艦大和、全長263メートル、幅39メートルの巨艦に2,500名から最期の沖縄特攻時は3,300名ほど乗組員がいました。その大量の食事をどうするか。基本的に100名近くの厨房担当がいたみたいです。朝昼晩で1日約9,000食を作るのは半端ないすね。

船なので基本的に火は使えません。日本人の主食、米はボイラーの蒸気を利用して炊く600合炊きの炊飯器が6つあったようです。そのほか電気で煮炊きする調理器具、野菜の皮剥きやカットを自動でする調理器もあったみたいです。大和が巨大な新鋭艦だったからこそあった設備なのでしょうね。

他にも弾薬の温度上昇を抑えて誘爆を防ぐ冷却装置の余力で士官室や指令室にはクーラーとして冷気を利用したり、大型冷蔵庫にもしてました。火災発生時に使う炭酸ガス発生装置を利用してラムネを作ったりもしてたみたいです。赤道直下の南方地域に進出してる時は乗組員に大いに喜ばれた一方、他の設備がそこまで整ってない旧型艦の乗員からはその快適さに「大和ホテル」と揶揄されていたそうな。大和の同型艦の武蔵は「武蔵旅館」だそうです。

そんな旧型艦の乗員、いや日本海軍全体から愛された艦がありました。それが給糧艦「間宮」と「伊良湖」です。

給糧艦という文字通り、食料を戦地や艦艇に持ってって補給する艦です。間宮で18,000人分の食料を3週間分、伊良湖で24,000人分の食料を2週間分運んだようです。

艦内には巨大な冷蔵庫が何台もあり、肉、野菜、嗜好品と分けて保存してたみたいです。さらに屠殺場を設けていたため、生きたままの牛馬を持ち込んで食肉加工してたんですと。

ほんでいろんな調理のプロたちが軍属(ざっくり書くと兵隊としてではなく軍隊に属して働く人たち)として艦に乗り込んでいます。艦内でラムネやアイスクリーム、羊羹といった嗜好品からこんにゃくや豆腐といったものまで作られました。中でも羊羹は老舗の羊羹屋さんのよりもうめー!! と兵隊さんたちに絶賛されて、どこに行っても人気の品だったとか。

そんな両艦ともに食品を扱うということで衛生面にも注意を払われてまして、乗員は基本的に貴重品の真水を使って毎日入浴できたようです。普通の艦なら入浴は週に2回、海水風呂です。ベタベタしてイヤですよね〜。で、真水を洗面器3杯分まで引き換え券でもらい、体の汚れをなんとか落としてたみたいなんでかなりの厚遇と言えるでしょう。南方の戦地にいた普通の艦の乗員たちは、スコールが来ると「風呂だ! わー!!」と甲板に出て真水を満喫したようです。

他にも間宮、伊良湖には真水で1日400着をクリーニングできる設備もあったりと、まさに生活に必要なものを賄った艦だったんですね〜。

そんな行く先々で引っ張りだこな両艦にも最期の時がやって来ます。

間宮は1944年12月に南シナ海でアメリカ潜水艦の攻撃を受けて沈没、寒い海に投げ出された乗員たち、みんな凍えて戦死したみたいです。約500名の乗員のうち生存者は6名という過酷さ。

伊良湖は1944年9月にフィリピン方面でアメリカ艦載機の攻撃を受けて大破、着底したのでそのまま放棄されたみたいです。

こうやって戦う目的ではない艦艇も太平洋戦争ではすごい数が沈んで、軍属の方も亡くなっています。輸送船に乗って沖縄から疎開してる最中に攻撃され、多数の民間人が死亡した対馬丸事件も有名ですね。「切腹ネタは気分が落ち込むからやめてくれ」でおなじみ、私共の事務所のスキンヘッド社長のおじいさんも漁船ごと徴用されて亡くなったそうです。

否応なく巻き込まれてしまうのが戦争なんですね。忘れてはならんことです。

▲戦艦大和と、三番主砲塔上あたりに写り込んでいるのが給糧艦間宮。

挿絵:西 のぼる 協力:新潮社

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