91歳の修道士 小崎登明さん 〝最後〟の被爆講話

原爆投下後、自宅に残した母を案じ、必死で帰った状況を語る小崎さん=諫早市立高来中

 「これで語り部は終わりという気持ちで話した」-。長崎で被爆したカトリック修道士、小崎登明さん(91)=長崎県諫早市高来町=が5日、同町の市立高来中で被爆した当時の状況を語り、25年の語り部活動に一つの区切りを付けた。助けられなかった人たちへの悔いと自身の弱さを明かし「人の痛みが分かる心を持って」と語りかけた。
 同校(浜本耕吉校長、197人)の平和教育講演会。小崎さんは17歳の時、三菱長崎兵器製作所の住吉トンネル工場で魚雷部品製造中に被爆。爆心地から500メートルの自宅にいた母を亡くし、「原爆孤児」になった。その後、聖母の騎士修道院(長崎市本河内)に入り、修道士になった。被爆体験の語り部を始めたのは1994年。長崎原爆資料館や勤務先の聖コルベ記念館で修学旅行生らに語り、約5年前、諫早市高来町の老人ホームに移り住んだ。
 「川のそばで助けを求める男の子を振り切った」「下敷きになった女子学生を助けたが、敵機の音を聞き、担架ごと置いて逃げた」「びんたをされた工場の先輩が倒れていたが、助けなかった」-。小崎さんは被爆直後の行動を振り返り「どんな時でも人を助けること。困難に遭っても逃げないこと。あだがある人でも許す心が平和の原点」と訴えた。
 生徒らが「原爆直後の暮らしは」「お母さんに伝えたい言葉は」「生きていてよかったと思うことは」などと質問。3年の川副佑悟さん(14)は「教科書に載っていない話。『許し合う心』を持つことは家や学校生活でも大切」と感想を口にした。小崎さんは「近年、思うように声が出ない日が増え、年齢には勝てない。30年近く前、高来中の校長にお世話になった恩返しができた」と話した。

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