レアル・マドリーがガチで狙って「逃した」9名のスター、そしてその代役

『Planet Football』は、「レアル・マドリーが真剣に獲得を狙ったものの、取り逃してしまった選手たち」という記事を掲載した。

世界最高クラスのクラブとして知られるレアル・マドリー。今夏は特に大型補強を連続して行っており、日本から久保建英も獲得している。

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しかし、そのようなクラブから誘いを受けながらも加入を拒否した選手、そしてレアル・マドリー側がギリギリで手を引いたという者もたくさんいる。そんな選手たちとは誰か?

ロナウジーニョ

レアル・マドリーが「銀河系軍団」のポリシーを持って活動していた2000年代初頭。サッカーの技術はもちろんのことであるが、選手自身のブランド価値も重要視されていた。

おそらく、それがフロレンティーノ・ペレス会長がロナウジーニョの獲得をギリギリで見送った理由だと言われている。彼のルックスがクラブのブランドイメージに反すると。そして会長ははるかにマーケットで価値を持っていたデイヴィッド・ベッカムと契約した。期待どおり彼はピッチの外で大きなビジネスに結びついた。

しかしロナウジーニョが2006年にバルセロナをチャンピオンズリーグ優勝に導いた時、そしてエル・クラシコで素晴らしいゴールを決めてサンティアゴ・ベルナベウの観客から拍手を受けたとき、ペレスは自身の判断を後悔したかもしれない。

フランチェスコ・トッティ

2003年夏、なぜレアル・マドリーが獲得した選手はデイヴィッド・ベッカム一人だけだったのか。それは、フランチェスコ・トッティの獲得に失敗していたからだ。

ローマでそのキャリアをすべて費やした「王子」であるが、もしこのタイミングでレアル・マドリーに移籍していたら、物事は大きく異なっていたかもしれない。

「何年も前のことだが、私はとてもレアル・マドリーに近づいていた。ローマからマドリッドに行くことを考えていた。本当に移籍直前だった」とトッティ本人も認めている。

1年後、前線の強化が必要になったレアル・マドリーはマイケル・オーウェンを獲得した。彼の状況がどうだったかを考えれば、トッティはローマに残って良かっただろう。

パトリック・ヴィエラ

レアル・マドリーがクロード・マケレレをチェルシーに放出した2003年夏。その後釜を獲得することはなかったのだが、フランス人の「掃除屋」がいなくなったことのダメージは大きかった。1年遅れで獲得が検討されたのがヴィエラだった。

マケレレほど守備的ではなかったが、エミリオ・ブトラゲーニョSDは「ヴィエラは我々にとって非常に興味深く、重要な選手である」と語り、2004年夏に獲得を目指していた。

しかしヴィエラはアーセナルに残ることを選び、レアル・マドリーはエヴァートンからトーマス・グラヴェセンを獲得したものの、共通点はスキンヘッドであることだけだった。

セスク・ファブレガス

アーセナルで若くしてデビューを果たし、すぐさま中心選手に成長したセスク。もしロンドンを離れることがあれば、少年時代を過ごした愛するバルセロナに戻ることが運命づけられているようにも見えた。

しかし、それはレアル・マドリーがスター性ある彼を引き入れようとする手を止めさせるには至らなかった。「歴史上屈指のクラブであるマドリッドから求められた、それは重要なことだった」とセスクは2008年に語っている。

ただ、最終的にセスクを見送ったレアル・マドリーは、2700万ユーロ(およそ33.2億円)でオランダ代表のウェスリー・スナイデルを獲得した。彼は僅か2年間でインテルへと去っている。

アシュリー・コール

2009年の夏、ガブリエル・エインセがチームを離れた後、レアル・マドリーはその後釜としてチェルシーに所属していたアシュリー・コールの獲得に動いた。

「あのときはとても辛かった。退団を考えていたが、監督のカルロ・アンチェロッティと会談をしたとき、彼が僕の残留を求めてくれて、残留を決意した」とコールは後に明かしている。そしてそのシーズン、代わりに妻シェリル・コールと離婚した。

レアル・マドリーはこの年アルバロ・アルベロア、ラウール・アルビオル、さらにエセキエル・ガライも獲得したが、左サイドバックでマルセロが大ブレイクしたためあまり影響はなかった。

ダビド・シルバ

セルヒオ・アグエロをマンチェスター・シティが獲得した後、レアル・マドリーは逆にシティで才能を発揮していたダビド・シルバを引き抜くことを考えていた。

しかしながら、シルバはシティでの2年目を迎えており、プレミアリーグを離れるつもりはなかった。代理人は「彼はマンチェスターに満足していた」と明かしており、事実シルバはずっとクラブに残っている。

レアル・マドリーが彼を獲得できなかったのは2012年。その際にルカ・モドリッチがトッテナムからやってきた。これは特に代替案というわけではなかったが、もしシルバが来ていたら役割が被っていたかもしれない。

スティーヴン・ジェラード

ジョゼ・モウリーニョ監督は、スティーヴン・ジェラードを自分のチームに引き入れようとしていたことを隠していない。チェルシー時代にそれを試み、そして2010年にもレアル・マドリーでアタックした。

またフランク・ランパードもモウリーニョの買い物リストに入っていたと伝えられているが、ジェラードのほうが優先順位は上だったそう。この二人をモウリーニョは「常に最高の選手」と高く評価していた。

もちろん、この両名はどちらもモウリーニョの下には行かなかった。とはいえ、その2010年にはメスト・エジルとサミ・ケディラを獲得することに成功しており、決して悪いようにはならなかったといえる。

ダニエレ・デ・ロッシ

トッティを取り逃してから数年が経ち、レアル・マドリーは再びイタリアの首都ローマから重要な選手を獲得するというロマンを抱いた。

メディアによって報告されたところによれば、レアル・マドリーはダニエレ・デ・ロッシの獲得に向けて2500万ユーロ(およそ30.7億円)のオファーを送ったそう。ローマはチャンピオンズリーグに出られなくなっていたにも関わらず、その提案は拒絶された。

当時チームを率いていたモウリーニョは、ボルシア・ドルトムントからヌリ・シャヒンを手に入れることになったものの、ほとんど戦力としては計算されなかった。

ネイマール

フロレンティーノ・ペレス会長は2017年、ネイマールがかつてレアル・マドリーでメディカルチェックを受けていたことを明らかにした。それは2013年の出来事で、移籍がかなり近づいていたことを示唆している。

サントスを離れる時が来た際、ネイマールはバルセロナへの移籍を好んでいると考えられていた。しかしペレス会長は最後の最後までレアル・マドリーが有利な立場にあったと主張している。

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とはいえ、おそらくネイマールのコミットメントについて確信が持てなかったからこそ、ギャレス・ベイルを当時の世界最高額で獲得したのだろうが。どちらのほうが良かったのかは…なかなか難しいところだ。

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