日米激戦、悲劇の残滓  サイパンで聞いた「海ゆかば」

サイパンの敬老センターを訪問され、現地の伝統的な衣装のお年寄りと握手する天皇陛下と皇后さま=28日午後(共同)

 海行(うみゆ)かば水漬(みづ)く屍(かばね) 山行(やまゆ)かば草生(くさむ)す屍…

 2005年6月、米自治領サイパン島の敬老センター。地元のお年寄りたちが、「歓迎」の歌として口ずさんだのは戦時中、玉砕を告げた「海ゆかば」だった。「お客さま」は、戦後60年の節目に初めて海外への慰霊の旅に臨まれた天皇、皇后時代の上皇ご夫妻。上皇さまが一瞬見せたこわばった表情に、日米による激戦地の悲劇の「残滓」を垣間見た思いがした。

 なぜ、上皇さまの表情は硬くなったのか。

 1944年7月のサイパン陥落は太平洋戦争の転機の一つだった。補給路を断たれ、玉砕戦を繰り広げた日本兵の9割超に当たる約4万3千人が亡くなった。米兵は約3500人が犠牲になり、幼子も含む民間邦人約1万2千人が死亡した。日本にとって「絶対国防圏」を突破され、開戦を主導した東条英機内閣が倒れる。本土空襲が本格化し敗戦に至る引き金となった。広島と長崎に原爆を投下した爆撃機が飛び立ったのは、サイパンに続いて米軍の手に落ちた小島テニアン島だ。

 大本営は「海ゆかば」をラジオから流し、南洋の拠点を失ったことを「玉砕」の美名とともに国民に知らせた。元々は奈良時代の家人大伴家持の長歌。それに曲を付け戦時中は「準国民歌」と言われるほどの人気曲だった。

 サイパン陥落後、皇太子時代で10歳だった上皇さまは静岡・沼津から栃木・日光に疎開先を移した。空襲を避けるためだった。側近は「(上皇さまにとって)『海ゆかば』は戦時中の暗い思い出と重なっている」と、明かしてくれた。

 幼い頃に日本統治下で過ごし、戦火を生き延びたお年寄りたちだったが、屈託はなく、笑顔で懐かしい曲を披露しただけだった。すぐに上皇さまもいつもの穏やかな笑顔を見せた。

 上皇ご夫妻は施設訪問に先立ち、島の北端の崖バンザイクリフを訪ね深々と拝礼した。米軍の攻撃を逃れ、「天皇陛下、万歳」と言って次々と身を投げた場所だ。照り付ける南国の強烈な日差し、群青色の海…。聞こえるのは波しぶきだけだった。こうべを垂れる2人の背中越しに60年前の惨劇を思い浮かべた。

太平洋戦争で多くの人が身を投げたサイパンのバンザイクリフを訪れ、黙とうされる天皇、皇后両陛下=2005年6月28日(共同)

 あれから14年、サイパン陥落から75年がたった。戦後50年の国内激戦地での慰霊に続くサイパン訪問は、戦後70年のパラオ、翌年のフィリピンへの鎮魂の旅につながっていく。

 父、昭和天皇による「戦いを宣す」という詔書で始まった太平洋戦争。昭和の「負の遺産」をかみしめ、背負う上皇さまの決意は、戦後世代の私たちに歴史の重みを継承していくことの大切さを気付かせてくれた。

 慰霊の旅で見た光景は、象徴天皇制を定めた憲法1条と非戦を誓った9条との「邂逅」だったのかもしれない。平成が終わり令和に入り、昭和がさらに遠くなった今、改めてそう胸に想起される。(共同通信=三井潔)

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