【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】 No.183

▲清水観音堂(東京都台東区)

(7月3日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

雨中の激戦

 元彰義隊士の阿部弘蔵は当時の様子をこう語っている。

 「朝五ツ(8時)前から四ツ(10時)過ぎ頃までは彰義隊が強かったために、広小路の方面に向かった敵の隊がひるんでしまった」

 黒門口に配置された彰義隊は、当初優勢であった。彼らは胸壁を作り、左右の土手と樹木を防御壁としていた。

 一方、黒門口の北西、谷中口には、長州軍、大村軍、佐土原軍が配備されていた。

 当時、谷中口へ向かう道は、連日の雨により、付近を流れる藍染川や水田からの水があふれていたため、通行が困難であった。

 この方面に彰義隊は、十五番隊、旭隊、万字隊、松石隊を配備。高低差を利用して、三崎坂の坂上に150人ほどが守備した。

 対する東征軍は、団子坂下という低地で、水があふれる藍染川を挟んで不利な場所からの攻撃となった。

 また、この時長州軍は、新式の小銃・スナイドル銃の扱い方が不慣れであったため、戦闘に支障をきたしたという。

 長州軍は、後続した大村軍に部署を引き渡した後、再び団子坂下に駆けつけた。

(続く。次回は7月17日付に掲載します)

© 株式会社サンデー山口