ドナルド・キーンさんが初体験した「戦場」 写真特集 アッツ島、キスカ島

ドナルド・キーンさん(左)=2011年、東京都北区で撮影 戦争の残がいが残るキスカ島(右)

 今年2月、96歳で亡くなったドナルド・キーンさん。戦時中、日本語通訳の米海軍士官となり赴いた戦場は、アラスカからカムチャッカ半島に伸びるアリューシャン列島だった。日本軍最初の〝玉砕〟の地となったアッツ島、濃霧に紛れて守備隊が奇跡的に脱出できたキスカ島。76年前の1943年5月から7月、米側が奪還した島々に上陸した様子について、キーンさんは「戦争」初体験として記述している。「花も樹木もなく、あるのは凍土だけだった」(ドナルド・キーン自伝)。これまで配信された現地の報道写真をまとめてみた。

アリューシャン列島アッツ島に墜落した日本軍のゼロ戦=1943年5月、米海軍撮影(AP)

 ▽最初の「玉砕」発表

 キーンさんが亡くなって来月で半年を迎えるが、キーンさん自身と戦場となった2つの島々の接点はあまり知られていない。

 米軍は1943年5月12日、1万1千人の大部隊でアッツ島への上陸作戦を開始した。対する日本側の守備隊は約2500人。米側に圧倒されて29日に「最後の突撃を敢行」と電報が入った後は、交信が途絶えた。大本営は30日に「アッツ島守備部隊は(略)優勢なる敵に対し血戦継続中の処」「全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行」「全員玉砕せるものと認む」と発表。大本営による最初の玉砕発表だった。以降、この言葉が敗戦を美化するために使われた。

 キーンさんは自伝で「アッツ島は最初の『玉砕』の地で、アメリカ人はこれを『バンザイ突撃』と呼んでいた」「日本兵は、ややもすればアメリカ軍をけちらしそうな勢いを見せた。しかし結局は勝利の望みを捨て、集団自決を遂げた。多くは自分の胸に、手榴弾をたたきつけたのだった。私には、理解できなかった」と記している。

 情報将校としてキーン氏の当時の主な任務は日本軍将兵が残した日記やメモ類の翻訳、解読だった。「日記の筆者は自分が本当に感じたことを書いた」といい、文字を通して日本人の心情や考え方に触れたことが、その後、日本文学や日本文化の研究者となる大きなきっかけとなった。2011年に私がインタビューした際にも、その動機となる思いを語ってくれた。

 目を通した日記の中には最後のページに英語で伝言が残されていたのもあったという。「戦争が終わったら家族に返してくれ」と綴られ、自らの死を覚悟して日記の読み手となるアメリカ人に遺品となった日記を届けてくれることを願ったものだった。

キスカ島に残る旧日本軍の特殊潜航艇。

 ▽墓標

 アッツ島とは対照的に、同じアリューシャン列島のキスカ島では奇跡の「撤退劇」となった。43年7月末、米軍の猛攻のすきを突き、守備隊約5500人がキスカ湾に入った軍艦に救出された。

 米軍が上陸した際には、島はもぬけの殻。キーンさんは「戦うべき相手がいなくて、誰もがほっとした」「しかし、別の衝撃が私たちを襲った」と自伝に記している。「ペスト患者収容所」という標識が島内で見つかったからだ。

 脱出後に現地に入る米軍への日本側のイタズラだったが、真偽が分からない米軍は混乱した。「ペストの血清を送るよう」要請する電文が米本国に打たれ、キーンさんら米兵士たちは身体に異常が起きないか、数日間不安な面持ちでお互いの身体を眺めていたという。

 キーンさんは自伝では言及していないが、キスカ島で米兵たちが見つけたのはそうしたイタズラだけでなかった。撃墜され死亡した米軍爆撃機のパイロットたちが丁重に葬られていたことだった。木製の墓標には「祖国のため青春と幸せを失った空の勇士、ここに眠る。日本陸軍」と墨のようなもので書かれていたという。50年後に日米の元兵士らが現地で合同慰霊祭を行っている。

(まとめ 共同通信=柴田友明)

キスカを空襲、撃ち落とされた勇敢な米軍パイロットのために日本陸軍が作った英文の墓標=1943年10月13日(米海軍撮影=AP)

© 一般社団法人共同通信社