戦力外、育成、野手転向… プロ5年の苦労人が掴んだ初アーチ「まだ野球がしたい」

オリックス・佐野皓大【写真:竹村美緒】

プロ5年の佐野皓大外野手、投手として入団も戦力外、育成契約、野手転向を経験した苦労人

「目の前に広がるグラウンドには夢を叶えるヒントがたくさん散りばめられている」

 厳しいプロ野球の世界に身を置き、ひたむきに戦う選手達の姿を見るとそう感じます。そう思わせてくれる中に、オリックスの佐野皓大外野手の姿があります。「好き」に向き合う苦しさを人一倍知っている佐野選手。普段、私がその姿にパワーをもらっているように、この記事を読んでくださった方にも何かを感じとっていただけたら……。

 7月6日、神戸の夜空に打ちあがる放物線にスタンドから大歓声が沸き起こった。プロ5年目を迎えた佐野選手が初本塁打となる同点3ランを放ちました。

「ずっとホームランを打ちたかった」

 プロ通算98打席目で若き苦労人の待望の一発だった。

 いつも球場に行くと、そこには早出練習に黙々と打ち込む選手の姿がある。前日に遅くまで試合をしていても、好不調問わずどんな時でも早出練習に現れ無心でバットを振り続けています。

「人より練習しないと置いていかれますからね。まだまだ他の選手たちと比べると打席に立たせてもらえる機会も少ないですから、みんなと同じ量だけ練習していても、どんどん離されていくだけなので!」

 そんな姿を見ると、寝不足だと弱音を吐きそうになる自分が恥ずかしい。練習熱心で、真面目、どんな時も謙虚なその姿勢からは学ぶことばかり。そんな佐野選手の波瀾万丈に富んだ野球人生を追った。

中学時代にはすでに将来の夢はプロ野球選手

 大分県佐伯市で、三人兄弟の次男として誕生した佐野選手。

「子供の頃から体を動かす事が大好きで常に走り回っていました」

 小学3年生までは陸上競技と柔道を兼任していたが、兄の影響で小学4年生から野球をスタート。ハードな練習に取り組み、力をつけていった少年は小学生の頃から中心選手としてプレーし、驚異的なスピードで成長を遂げると同時に野球のことをどんどん好きになっていったそうです。

 中学時代にはすでに将来の夢は“プロ野球選手”。周りの友達には「将来野球選手になる!」と夢を語り、授業中にはよく先生の目を盗んでノートにサインの練習もしたそうです。「卒業文集にもプロ野球選手の真似をしてサインを書いたりしていましたね」。当時を振り返り懐かしそうに笑顔を見せていました。

 2014年にドラフト3位指名でオリックスに投手として入団。ずっと夢だったプロ野球人生がスタート。しかし、そこに待っていたのは苦難の連続でした。

「プロ2年目~3年目の頃が一番辛かったですね」

 2016年にウエスタン・リーグ公式戦で20試合に登板し2勝1敗、防御率3.03でシーズンを終えた。だが、ステップアップを誓った2017年に投げたのは僅か5イニング。防御率は7.20。思い描く投球ができずに苦しんだ。登板数が激減した当時のことをこう振り返った。

「思うように投げられなかった自分が悪いし、ただ、ただ自分の責任でした。悔しかったです」

当時、球団のアシスタントMCとして舞洲に取材に行った時の佐野選手の姿を今でも覚えている。俯き加減で、時折どこか暗い表情だった印象が残っている。

「あのときはモチベーションも自信も失っていた気がします。」

 ファームでもほとんど登板機会がないまま、時は過ぎていくばかり。そして頭をよぎるのは“戦力外通告”の5文字。上手く投げられない。登板機会すらほとんどない。学生時代あれだけ楽しかった野球、大好きだった野球が苦しくて辛くて嫌いになりそうだった。

 地元に帰り、家族や友達と顔を合わせたときには「俺、今年でクビやわ~!」「引退したら漁師になるわ~!」。本当は望んでもいないことを口にしていた。

 そんな佐野選手に母は「野球だけが人生じゃないからね」と言葉をかけ、友達は「今まで十分頑張ってきたじゃないか」と労った。

「あのとき母ちゃんは、僕の重荷にならないようにああいう言葉をかけてくれたけど、本当は野球選手として活躍する僕の姿を見たいと思っていたとおもうんです。そして僕もあんなこと口では言っていたけど本当は、支えてきてくれた家族に野球で恩返しがしたいし、応援してくれている友達に1軍で活躍している姿を見てもらいたい。心のどこかでまだ野球がしたいと思っていましたね」

 希望を胸に飛び込んだ憧れのプロ野球の世界。あれだけ自分の生活に彩りを与えてくれていた野球。いつしかその野球に苦しめられるようになっていた。

18年からオリックス戦のリポーターを務める竹村美緒【写真:本人提供】

2017年オフに戦力外通告、育成を経て野手に転向

 そして2017年に野球人生を大きく変える転機が訪れる。同年のオフに戦力外通告。そして育成選手契約を結び、内野手として再スタートした。

「野手転向の話をもらったときは驚きましたけど、気持ちは前向きになりました。あの話をいただいたから今の自分がありますし、声をかけてくださった球団の方、担当スカウトの方には今でも感謝の気持ちでいっぱいです」

 2018年には支配下登録され、さらに外野手に転向。同年8月には右打ちから両打ちに挑戦。その高い身体能力に当時2軍監督だった田口壮1軍野手総合兼打撃コーチは「足も速いし、バッティングセンスもいいんですよ。練習もよくするし、ああいった姿を見せられると期待したくなりますよね」と潜在能力の高さを絶賛していた。

 そしてこの年は、ウエスタン・リーグではチーム2位となる6盗塁をマーク。シーズン終了後には、台湾で開かれたアジアウインターリーグで主に代走で14試合に出場すると、11盗塁を記録しリーグの盗塁王に輝いた。50メートル5秒8のこの俊足が高く評価され、5年目の今年は開幕1軍を掴み取った。

「佐野選手が塁に出ると何かコトを起こしてくれそう!」。そんな期待を持ってしまうのは、私だけではないはず。しかし学生時代は足が目立つタイプではなかったそうです。

「高校時代の仲間たちは今の僕の姿にびっくりしていますね。当時のコーチも『お前そんなに足が速かったのか! それなら高校時代ももっと走れよ!』って、そんな風に笑っていました」。今や佐野選手の代名詞ともいえる俊足にかつての仲間や恩師たちも驚きを隠せないようです。

ロッテ涌井との対戦は感慨深いものに「まぐれが2回続きました(笑)」

 今年のシーズン前半には、佐野選手にとって感慨深い対戦もあった。5月1日に京セラドームで行われたロッテ戦での涌井投手と初対戦。1打席目でレフトへのヒットを放つと、次の打席ではもう1本。マルチ安打をマークした。

「まぐれが2回続きました!(笑)」

 実は中学時代の憧れの選手だった。学校では涌井投手の下敷きを愛用し、グラブは涌井投手と同じモデルをつかって野球に励むなどヒーローのような存在だった。

「憧れだった凄い投手と、まさか自分が野手として対戦する日が来るとは思ってもみませんでしたね」

 少年時代にずっと眺めていた下敷きに映った憧れのヒーローが、目の前のマウンドに立っている。夢の舞台は今後の大きな財産になったに違いないでしょう。

 最後に佐野選手に、今どんな気持ちで野球に向き合っているのか聞きました。

「打てなかったり、ミスしたり、今でも落ち込むことはありますよ。でも2、3年前の苦しかった時期を思えば、こんなの全然です。今こうして野球を楽しめているのは、あの苦しかったときに諦めずに努力してきた自分がいるから。そしてその姿をみてくれていた人たちが居たから。苦しいときこそ我慢ですね」

 どん底を経験したからこそメンタル面も一皮向けた。プロ5年目で花が開き始めたことに「少しは野手らしくなってきましたかね?」と、その笑顔には野球に苦しめられている様子は微塵も感じない。

 どんな時でも力を尽くそうと努力を重ねる姿はその人の魅力を一層高め、また誰かに勇気を与えることもある。佐野選手をみていると「私も、がんばってみよう」そんな気持ちが沸き上がってきます。辛いときこそ踏ん張りどき。そしてその逆境は自分を大きく成長させ人生を変えるチャンスかもしれない。

 最後にひとネタ加えさせて頂きます。佐野選手といえば無類の動物好きでも知られています。入団当初には動物園を作りたいと言って報道陣の方々を困惑させた程です。

「実家では動物を飼うことを反対されていたんですが、それでも動物が好きだったので、家の近くで捕まえたカメや魚をこっそり自分の部屋で育てたりしていました。(笑)」

 ちなみに今、飼ってみたい動物は陸亀だそうです。動物の話をしているときの佐野選手は少年のような笑顔を見せてくれ、その表情につられるようにこちらまで笑顔になる。近い将来、ヒーローのお立ち台でもそんな笑顔を見せてくれるはずです!!

竹村美緒(たけむら・みお)
2014年から17年までオリックス・バファローズスタジアムアシスタントMCとして活動。18年からプロ野球中継のオリックス・バファローズ戦のリポーターやヒーローインタビュアーを努める。休みの日でも京セラドームでのホーム戦には必ずといっていいほど顔を出し取材に励む。(竹村美緒 / Mio Takemura)

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