【特集】川島町とオリンピック (1)

埼玉県川島町 広報かわじま2019年7月号 Vol.711

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≪誇り高き川島町の偉大な人物たちを紹介します≫

東京2020オリンピック、東京2020パラリンピックの開催まで、あと1年と間近に迫って参りました。
そこで、今回は「川島町とオリンピック」と題して、町の誇るべき人物のエピソードを紹介します。

■幻の東京オリンピック 鈴木聞多
「練習量を多く積んだ者が結局は勝つのだ」

○世界的スプリンター
写真(右側の人物)は、昭和11年のベルリン・オリンピック大会などで活躍した鈴木聞多(ぶんた)(以下聞多)という世界的スプリンターです。
聞多は、スポーツに対する理解がまだ浅かった昭和のはじめに、陸上競技男子百メートルで10秒6という世界的記録を出した日本を代表するスプリンターでした。

○出身は三保谷村
聞多の出身は、埼玉県比企郡三保谷村(現在の川島町)で、村長などを務めた鈴木庸三の三人兄弟の末っ子として生まれます。
少年時代から運動能力に優れており、旧制川越中学(以下川越中学)(現在の川越高校)に入ってからは、陸上競技に興味を持ち専門的に練習を始めたそうです。

○きっかけを与えたオリンピック
陸上部に入部した昭和3年の夏休み、オランダのアムステルダムで第9回オリンピックが開催されました。そこでの日本選手の活躍がラジオや新聞で伝えられ、聞多も日本選手の活躍に胸を躍らせていたようです。それから聞多は、本格的に陸上競技に入り込んでいったのです。

○苦しい練習のその先に
中学5年(昭和5年)の夏、長く苦しい練習の成果が表れます。聞多は、神戸で開催される第16回全国中学校陸上競技選手権大会(現在のインターハイ)の出場権を獲得します。
そして、五千人の観衆が集まった第16回全国中学校陸上競技選手権大会で、聞多は緊張感や責任感に打ち勝ち、見事百、二百メートルで優勝します。その時のことを「練習と言うものは苦しいものだ。しかし、練習量を多く積んだ者が結局は勝つのだ」、「苦しければ苦しいほど闘志がわき、それを乗り越えるたびに自信がついていった」と振り返っていたそうです。

○世界への挑戦が始まる
昭和6年4月、聞多は川越中学から慶應義塾大学予科へと進学し、新入生としてただ一人の早慶対抗陸上競技の代表選手に選ばれました。
その後、昭和9年慶応大学予科から法学部政治学科の本科に進んだ聞多は、同年5月からマニラで行われる第10回極東選手権大会の選考競技会へ出場しました。
その選考競技会で、二百メートルに出場した聞多は4着でゴールし、見事に国際大会出場選手の一員となりました。
迎えた極東選手権大会、緊張のためか激しい腹痛に襲われ食事もまともにとれなかったにもかかわらず、二百メートル決勝で3位入賞を果たしました。

○10秒6
極東選手権大会から帰った後、第12回早慶対抗陸上競技大会が神宮競技場で行われました。この大会の百メートルで、聞多はスタートから飛ばし、二着との差を圧倒的にひろげて、10秒6を記録します。世界に通用する大会新記録が誕生した瞬間でした。

○ベルリンオリンピックへ
国際情勢の緊張が高まるなか、昭和11年8月、第11回オリンピックベルリン大会が開催されました。この大会において、聞多は百メートルを10秒6で走りますが、悔しくも予選D組4着で落選してしまいます。
聞多にとっては悔いの残るオリンピック大会となりましたが、聞多の欧米選手並みのダイナミックな走法に、人々の注目が集まりました。それから聞多の走りが、やがて世界に通用するときがくるのではないかと世間の期待が、昭和15年開催予定であった東京大会に向けて高まっていったのです。

○潰える東京オリンピックの夢
ベルリンから帰った三か月後の12月には、中国現代史の重要な転機となった西安事変がおこり、次第に中国との全面戦争に情勢が変わっていきました。
聞多は大学卒業後、日立製作所に入社します。しかし、昭和12年7月、日中戦争が勃発し、聞多は東京オリンピックへのかき消すことのできない無念さを胸にしながら、12月、日立製作所を辞し、陸軍に志願兵として入隊します。
昭和13年1月から6か月間、北海道での訓練を終え、昭和14年3月に聞多は見習士官を命じられます。4月には峰木部隊に編入され、中国北部に出征を命じられた聞多は、中国戦線における最前線の戦場に派遣されます。
7月10日午後5時、聞多は河南省黄河北岸にて戦死しました。世界的スプリンターの早すぎる死が悼まれました。享年26歳でした。