仕事で大切なことはすべて「太陽にほえろ!」と石原裕次郎に教わった 1986年 11月14日 日本テレビ系ドラマ「太陽にほえろ!」の最終回が放送された日

石原裕次郎が亡くなったのは、今から32年前、1987年7月17日のことだ。

昭和から平成にかけての時代の節目ということを考えると、89年に亡くなった美空ひばりと同様に、昭和の大スターの訃報をひとつの時代の終わりの象徴として捉える人たちは少なくないと思う。

享年52。現在の我々とほぼ同じ年齢であったことを考えると、感慨深いものがある。晩年の健康状態が報じられるたびに、お茶の間の話題になっていたものだが、彼を支持していたのは、むしろ我々の親世代であった。

私もそうだが、Re:minder 世代の人たちは、彼の全盛期を知る人はほとんどいないのではないだろうか。デビューは1956年(昭和31年)。一躍、銀幕のトップスターとなった昭和30年代の華々しい活躍をリアルタイムで目にすることはできなかった。

その頃はアクション映画で人気を博した「日活映画」の全盛時代といわれるが、我々の知る日活はロマンポルノ路線にシフトした後の「にっかつ」であり、石原裕次郎や小林旭が主役を張って活躍した時代は、既に歴史上の出来事に等しかった。

若い頃は時代の寵児であり、やんちゃで破天荒なキャラクターを演じていたようだが、我々にとっての石原裕次郎は、石原プロモーションの代表、芸能界の重鎮であり、役柄としては超人気ドラマ『太陽にほえろ!』の主人公、藤堂捜査一係長、通称「ボス」のイメージ。顔色は浅黒く、眼光鋭い、いつも眉間に皺の寄った感じの強面の男である。我々の世代はドラマの中とはいえ、このボスの姿を見て、組織とは、リーダーとは何かということを考えさせられてきたような気がする。

『太陽にほえろ!』は警察組織を舞台にしたテレビドラマであるが、最近この種のドラマの傾向としては『踊る大捜査線』や『相棒』などの人気シリーズの中で、やたらと「所轄」対「本庁」、「叩き上げ」対「キャリア」といった組織内の対立が背景に描かれることが多くなった。この辺りは時代のニーズも反映していると思うのだが、企業組織も上意下達でイケイケだった時代には強いリーダーを。組織が成熟して多様化した昨今は、よりフレキシブルな対応力を求めるようになっている。

当時ドラマの舞台となった「七曲署 捜査一係」は藤堂係長の強力なリーダーシップに率いられた個性派集団であった。参謀役の山さん、熱血漢のゴリさん、優しい殿下、ベテランで気配りの長さんといった面々に若手の刑事が加わったチームで、我々はいつもがむしゃらに走り回っている新米刑事に自分を重ね合わせて、彼らが一人前に成長していく様をブラウン管を通して眺めていた。

劇中、事件が起こると、まずボスの電話が鳴る。

「はい、捜査一係…。殺し?」

瞬間、一同に緊張が走る。自然とデスク周りにメンバーが集まり、即席の捜査会議が始まる。程なく総括すると、ボスが的確な指示を出しはじめる。

「山さんは(被)害者の身元を洗ってくれ。殿下は鑑識へ。ゴリさんと長さんは現場付近の聞き込みへ廻ってくれ…」

その時カメラが捕らえているのは、部下たちではなく、指示を与える頼もしいボスの表情である。

チームが一斉に動き出すと、あとは基本の「報告・連絡・相談」の繰り返し。携帯電話のない時代、捜査一係の面々は、とにかく外から公衆電話を掛けまくり、ボスはいつも必ずデスクに居ながら、その都度細かく指示を飛ばす。サッカーも野球もストライカーやスラッガーばかりでは、ゲームには勝てない。核となる司令塔が全体を掌握しながら、互いを補い合ってチームは機能していくのだ。

ある時、突然捜査は壁にぶち当たる。それも思いがけなく、敵は内部に現れる。

ボスが言う。

「上に圧力がかかった」

「ボスっ!?」

「こっちは大丈夫だ。捜査は続行する。責任は俺がとる」

組織人なら誰もが憧れ、一度は口にしてみたいが、現実にはなかなか発することが難しいセリフだ。ただ腹が据わっているだけではダメである。それに相応しい立場にある人が発してこそ、意味を持つのだ。我々が軽々しく発すると「お前の首ぐらいじゃ、収まりがつかん!」などといわれて終了である。

石原裕次郎という人は、現実の世界でも旧来の固定観念や柵と闘い続けてきた人であったという。かつての映画界は映画会社間の協定が存在し、監督、俳優たちは皆、どこかの映画会社の専属となり、互いに他社の作品に出演することが禁じられていた。手塩にかけて育て上げたドル箱スターで他社の作品を儲けさせるわけにはいかないという、今考えると企業論理が先行した何とも了見の狭い話である。

この旧態依然の映画界の体質に反旗を翻したのが、彼であった。独立プロを設立し、プロデューサーシステムで制作資金を集め、俳優たちが映画会社の枠にとらわれずに好きな作品に出演する権利を確立していった。

またスター同士の結婚が絶対に認められなかった当時、仕事を放り出して逃避行に走るという、役柄そのままの破天荒さで、女優・北原三枝との結婚を実現させたことなど、とにかくあらゆるタブーを打ち破っていった。

なぜ石原裕次郎にだけこんなことができたのか。それは彼が下積みを経ずにいきなりトップスターに成り得たからではないだろうか。映画芸能界は、その黎明期から歌舞伎界の影響を強く受けており、俳優から製作現場に至るまで、師弟関係を軸とした封建的な社会が出来上がっていた。

新進気鋭の学生作家としてデビューし、既に文壇の新星として注目を浴びていた兄・石原慎太郎は、弟・裕次郎を出演させることを条件に、著作『太陽の季節』の映画化を承諾したという。与えられたきっかけとはいえ、そこから先は自らの実力と努力で掴み取ったものだ。

とにかく彼はそういったタテ社会にさらされることなく、少しずつ望んだ環境を手にしていった。もちろん容易い道ではなかったことだろう。幾度となく嫌がらせや妨害にもあったはずである。だが彼は持ち前のリーダーシップと「トップに立つ者こそ、先駆者であるべき」という気概を持ち続けることで、後進のための道を切り拓いてきた。

その姿はまさに『太陽にほえろ!』のボスそのものであり、皆が憧れるリーダー像でもあった。

しかしこういったストレスフルな人生は、次第に彼の身体を蝕んでいった。52歳での逝去はあまりに早く、多くの人々に惜しまれた死であった。今なお存命であれば一体どれだけのことを成し遂げてくれたかわからない。彼が活躍した時代、日本のショービズ界はまだ黎明期であった。成熟したこの時代に同じ存在感を示し続けるには、おそらく何倍ものエネルギーを必要とすることだろう。

平成の世も31年を以て終わり、令和という時代を迎えた。それは、まさにひとつの時代が終わり、新しい時代を迎えようとしていたあの頃に重なる――。

あの日、同世代のスターを失った人々の喪失感は、今なら誰に匹敵するといえるだろう。不世出のスーパースターというのは、まさにそういうものなのだ。

※2017年7月17日に掲載された記事をアップデート

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